奏―かなで―
綾瀬が羨ましかったんだ。
弾き語りをする勇気がある綾瀬が。
ギターを弾ける綾瀬が。
想いを歌に乗せる綾瀬が。
だからこそ悔しい。
こんなにも想われているその人が恨めしい。
この蜃気楼みたいな世界で、綾瀬の歌だけが真実だと思った。
綾瀬の歌だけが、幻なんかじゃないと、確かに思った。
だけど
今、あなたが歌うその曲は
他の曲とは訳が違うんだね。
本当に、心の底から。
胸が苦しくなる程に。
愛しているんでしょう…。
歩道橋の階段を下り切る前に、あたしは崩おれてしまった。
涙でぼやけた視界に、煩わしそうに見下ろす通行人が映る。
好奇の目に晒されたあたしに、冷やかす声も聞こえた。
だけど
そんなこと、どうでもよかった。
世界が、また揺らめく蜃気楼に戻ってしまった。
夏の日差しによく焼けたコンクリートの階段が、座ったあたしのお尻をジワジワと温めた。
夕日が、ビルの間に沈んでいく。