まどわせないで
『おつかれさま』

 穏やかな、蜂蜜の優しい甘さを感じるような声が右耳の方から聞こえてきて、驚いて飛び上がる。
 陸はちょっと離れたテーブルのところに座っている。この声が聞こえてくるのは、ヘッドホンから。まるで右側に来て話しかけられてるようなリアルさに、ドキッとした。

『今日は少し疲れた? 疲れたって、顔に書いてあるよ』

 気遣いながら、くすっと柔らかく笑う声に、心がじんわり暖かくなる。

『お腹空いてるでしょ? ご飯、行こうか』

 このあと、足音が二つに増えて雑踏のなかを歩いていく。
 まるで、自分が話しかけられてるみたい。
 っというか、この声、如月さんだ。
 ヘッドホンから聞こえてくるのは、人当たりのよさそうな大人らしい優しい声。
 目の前の悪魔のような男が、こんなに穏やかな声で話すなんて。
 話しを聞き進めていると、どうやら如月さんひとりがしゃべっている。一緒に並んで歩いているのを表現しているのか、ずっと右側から声が聞こえてくる。相手のひとは同じ職場の、年下の恋人らしい。名前を呼ぶときは『君』って呼んでいた。
 疑似恋愛?
 彼女とのデートに、高級ホテルで食事をして、バーでカクテルを飲むところまで展開は進んだ。
 普通のデートで、高級ホテル?
 如月さんが演じているのは、彼女の上司みたいだけど、夢のような展開だ。

『明日は会社が休みだね。いつもはぼくのうちにきてもらっているけど、今日はいつもと違う場所で特別な一夜を明かそう。部屋を取ってあるんだ』

 フフっと無邪気に笑う大人の雰囲気に、心をくすぐられた。
 声だけで、色んな表情が出来るものなんだ。感心しつつ、その内容に驚いてもいた。
 泊まるの!?
 高級ホテルでディナー、バーとはしごして、とどめに宿泊!?
 凄い。ゴージャスコースだ。
 普通に聞いていられたのは、ここまでだった。
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