まどわせないで
「………」

 テレビを付けていない部屋に響くのは、時計のカチカチという秒針の音と、自分の心臓の音だけだった。ときたま窓の方から車の走り去るタイヤの音や、通り過ぎるひとの話し声も届いてくる。
 けれど、壁の向こうからはなにも聞こえない。
 もしかして、いないのかな? 留守なだけ?
 麦茶を入れるために持ってきたコップに目をやり、おもむろに掴んだ。もしかしたら緊急事態が起きているかもしれないのだ。ここで躊躇っていたら、如月さんが死んでしまう。
 掴んだコップの飲み口のほうを壁に当てて、底のほうに耳をくっつけた。

「………」

 耳を澄ます。服の擦れる音が邪魔にならないように身動きしないで、壁の向こうに意識を集中させ、息を殺して、よーく耳を澄ましてみる。

「………」

 っ。
 じゅるるっ。
 ずーずーっ。

 へ?
 な、なんの音?
 聞こえてきたのは、何かをすするような音。
 もしかしてラーメン食べてるのかな? そばとか、うどんっていう可能性もあり?
 もう一度、しっかり耳を当てると、同じような音が聞こえてきた。
 音が聞こえるということは、生きてるみたい。
 小麦がホッとしたところで、プ~ンと耳障りな音が聞こえてきた。その不快な音の原因はなにかと探すと、目の前をなにやら黒いものが飛んでいた。眉をひそめてそれに焦点を合わせる。

 あ! 蚊‼
 小麦は躊躇うことなく渾身の力で叩いた。
 バン!
 壁を。

 やった! まだ、刺されてない。
 手のひらで黒く潰れた蚊を見て、勝利の笑みを浮かべたのもつかの間、その笑顔が凍りつく。
 手のひらがじんじんと痛むのも気にならないほど、いま叩いたばかりの壁を、穴が開くほど見つめる。

 どうしよう。
 壁を、叩いてしまった。
 それもかなり強く。バン! と。
 となりのひとに聞こえちゃったかな? 驚かせちゃったかな?
 蚊との戦いに勝利をしたものの、小麦の心を不安が閉めそれどころではなくなってしまった。


 ピンポーン。ピンポーン。
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