まどわせないで
「離してくださいっ」

 引っ張られる腕を引っ張り返す。
 こういうとき、パンプスだと動きにくい……!
 男の力にグイグイ引っ張られて、人気のない茂みのほうへ連れていかれそうになる。振りきろうと、全身で反対方向へ体重を傾けたとき、相反する力に筋肉が悲鳴をあげた。男を振り返り、強い痛みに顔を歪めたとき――。
 視界が遮られ、顔をあげると目の前に壁のように立ちふさがる、大きな背中が見えた。

「え……っ」

「なにしてる」

 鷹揚のない冷静な口調。この蜂蜜声は、如月さん……!
 陸は水色のシャツに、紺のスーツ、お揃いのネクタイ。焦げ茶の革靴という格好で現れた。
 まるでヒーローのように、突然現れた彼に驚いたのは小麦だけではなかった。男は自分より大きな男が不愉快そうな顔で見おろすのを、緊張した様子で見上げた。
 陸は、小麦の腕を掴んでいる男の腕を素早く掴んだ。涼しい顔で腕に力を込める。痛みに顔をしかめ、男が手を離した。陸は自由になった小麦を、一瞬のためらいもなく、片腕で引き寄せる。いきなり抱きよせられた小麦は、陸の胸に手をやってバランスを崩しそうになる体を支えた。頭を下げた陸の唇が、前髪のかかる額に触れている。まるで自分のものだと主張するような態度。

「……消えろ」

 凄みを聞かせた一言。相手を震え上がらせるには充分だった。その胸に顔を埋めるようにしていた小麦の耳に、遠くなっていく足音だけが聞こえた。
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