まどわせないで
 その言葉は、黙ったまま首を振る小麦の心の深い所に染みて、なぜだか涙が溢れだした。
 いつも振り回されてばかりで、彼がそばにいると怒ったりドキドキしたり、傷ついたりすることも多く、普通の自分でいられなくなるほど戸惑うことばかりだった。
 今日だって、特別優しい言葉をかけてもらったわけではない。
 さっきまでは。

『ごめん……』

 その言葉から、今までわたしの気持ちなどかえりみることのなかった如月さんの、深層にある感情を垣間見たような気がした。
 どうしよう。
 胸が震える。
 このひとへの気持ちが止まらなくなる――。

「……バカ、泣くな」

 小麦の頬を伝う涙を陸は細く長い指で拭う。その指は優しく温かで、言葉は乱暴なのに、口調は優しかった。

 女が涙を見せるときは、自を武器にするときだとずっと蔑んだ思いを抱いてきた。
 だが、なにをいっても真っ向から受けとめる小麦には計算高いところはなく、どんなときも素直で、その流す涙は繊細で綺麗で。

「どうしたらいいかわからなくなるだろ」

 なんだかわからない甘ったるい感情が込み上げてきた。
 立ち尽くしたまま涙を流す小麦は頼りなくて、風が吹いたら消えてしまいそうな脆さを感じた。
 だから。
 消えないように、飛んでいかないように。
 腕に抱きしめた。
 小麦のぬくもりが、陸の冷えた心を満たしていく。つかの間溶かされた心はやがて熱を帯び、陸を駆り立てる。
 自分を抑えることに慣れていたはずなのに、抑えられない欲しいという衝動。

 こんな感情、知らない――。

「お腹減った」

 陸の呟きに、腕のなかの小麦が顔をあげる。

「如月さん、今日はご飯いらないって――」

「いますぐお前が食いたい」

 小麦が話し終えるのを待たずに彼女の開いた唇に、陸の唇が下りてきた。
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