ヒーローに恋をして
広い部屋だった。エレベーターを降りた階にほかの扉はなかったから、ワンフロアを貸し切っているのかもしれない。
長いキッチンカウンターの向こうにリビングがあって、四人掛けの革張りのソファとガラスのローテーブルが鎮座している。天井までガラス張りの窓の向こうには都心の夜景が広がっていた。このままドラマや映画の撮影が入れそうな、高級感のある空間だった。
ぼうっと室内を眺めたまま、中に入ろうとしない桃子にコウが振り返る。
「どうしたの、入りなよ」
コウの言葉に、ゆっくりと顔を向ける。
こうやって見てみても、やっぱり知らない人みたいだ。
事務所や現場で数多見てきた、見目の良い男、の一人。幼なじみのこうちゃんだなんて、とても思えない。
「なにか飲む? ミネラルウォーターと……あとお酒しかないや」
はは、と笑う声がキッチンから聞こえる。桃子はふぅ、と息を落とした。諦めて部屋へと上がると、あっち座ってて、とソファを顎で示される。ソファの方に向かっても腰掛ける気にはなれなくて、とりあえず隅に立っていた。
「ミネラルウォーターでいい? ガスありとなし、どっちが好き?」
ガスがあるとかないとか、そんなこと気にしたこともない。
「じゃあ……ありで」
また息をついて、鞄を持ち直す。手持無沙汰になって、さっき見ていたマスコミ用の配布資料をもう一度取りだした。
一番後ろのページには、モデル時代のコウの写真が載っていた。
海辺を歩くコウ、ペットボトルを持ってポーズを取るコウ、座りこむコウの横に英語のロゴが浮かんでいる。
写真の横には日付と商品名やブランド名が書かれていた。一番古い日付は五年前。まだ十七歳の、今よりもあどけない顔をしたコウがベンチに座って笑っている。
これが、コウ。
桃子の知らない時間のコウ。
「どうして、芸能界なんて入ったの?」
問いが無意識に唇から零れていた。キッチンに戻りかけたコウが、ゆっくりと振り返る。
桃子の後ろで小さくなっていたこうちゃん。あんなふうに堂々とカメラの前に立って笑うなんて、絶対できないと思ってた。
離れていた間、こうちゃんの身に一体なにが起きたっていうんだろう?
コウはじっと桃子を見て、やがて口元に笑みを浮かべて言った。
「面白そうかなと思って。ももちゃんの代わりにやってみてもいいかなって」
代わり?
問うように振り返ると、コウがまっすぐに桃子を見ていた。記者会見の時、目が合ったように思った、あのときと同じ目だった。
「ももちゃん、あれからすぐ売れなくなっちゃったでしょ? だからももちゃんの代わりに、俺がテレビに出ようと思ったんだ」
コウの手、大きな男の手がすっと伸びる。桃子の片耳を指先が挟んで、掌の熱が頬に伝わった。
突然、どうしてこの男がトップモデルになったのか理解した。長い首に影が落ちて、艶のある黒髪が柔らかく目元を隠している。
なにもわからない。なにも許してない。それなのに、優雅にさえ見えるしぐさから目が離せなかった。
気がつけば、もう片方の腕が桃子の腰にするりと回っている。固い腕の感触。おとこのもの、だ。
――ももちゃんは、ヒーローなんかじゃない。
ふいに高い声が、耳の中で回った。その瞬間、
ドンッ。
突き飛ばす両手は震えていた。この間の痴漢ディレクターにはもっと毅然とできたのに。自分が震えていることが、悔しい。
そう思ったら、急にぐわりと感情が昂ぶった。
ひと一人分開けた空間。コウがどんな顔をしてるのかなんてわからないし、知りたくもない。
「……帰りますっ」
逃げるようにコウの横をすり抜けて、玄関へと下りる。扉を開いて、目の前のエレベーターに飛び乗った。
無機質に下降するエレベーターのなか、桃子はへなへなと座りこんだ。
長いキッチンカウンターの向こうにリビングがあって、四人掛けの革張りのソファとガラスのローテーブルが鎮座している。天井までガラス張りの窓の向こうには都心の夜景が広がっていた。このままドラマや映画の撮影が入れそうな、高級感のある空間だった。
ぼうっと室内を眺めたまま、中に入ろうとしない桃子にコウが振り返る。
「どうしたの、入りなよ」
コウの言葉に、ゆっくりと顔を向ける。
こうやって見てみても、やっぱり知らない人みたいだ。
事務所や現場で数多見てきた、見目の良い男、の一人。幼なじみのこうちゃんだなんて、とても思えない。
「なにか飲む? ミネラルウォーターと……あとお酒しかないや」
はは、と笑う声がキッチンから聞こえる。桃子はふぅ、と息を落とした。諦めて部屋へと上がると、あっち座ってて、とソファを顎で示される。ソファの方に向かっても腰掛ける気にはなれなくて、とりあえず隅に立っていた。
「ミネラルウォーターでいい? ガスありとなし、どっちが好き?」
ガスがあるとかないとか、そんなこと気にしたこともない。
「じゃあ……ありで」
また息をついて、鞄を持ち直す。手持無沙汰になって、さっき見ていたマスコミ用の配布資料をもう一度取りだした。
一番後ろのページには、モデル時代のコウの写真が載っていた。
海辺を歩くコウ、ペットボトルを持ってポーズを取るコウ、座りこむコウの横に英語のロゴが浮かんでいる。
写真の横には日付と商品名やブランド名が書かれていた。一番古い日付は五年前。まだ十七歳の、今よりもあどけない顔をしたコウがベンチに座って笑っている。
これが、コウ。
桃子の知らない時間のコウ。
「どうして、芸能界なんて入ったの?」
問いが無意識に唇から零れていた。キッチンに戻りかけたコウが、ゆっくりと振り返る。
桃子の後ろで小さくなっていたこうちゃん。あんなふうに堂々とカメラの前に立って笑うなんて、絶対できないと思ってた。
離れていた間、こうちゃんの身に一体なにが起きたっていうんだろう?
コウはじっと桃子を見て、やがて口元に笑みを浮かべて言った。
「面白そうかなと思って。ももちゃんの代わりにやってみてもいいかなって」
代わり?
問うように振り返ると、コウがまっすぐに桃子を見ていた。記者会見の時、目が合ったように思った、あのときと同じ目だった。
「ももちゃん、あれからすぐ売れなくなっちゃったでしょ? だからももちゃんの代わりに、俺がテレビに出ようと思ったんだ」
コウの手、大きな男の手がすっと伸びる。桃子の片耳を指先が挟んで、掌の熱が頬に伝わった。
突然、どうしてこの男がトップモデルになったのか理解した。長い首に影が落ちて、艶のある黒髪が柔らかく目元を隠している。
なにもわからない。なにも許してない。それなのに、優雅にさえ見えるしぐさから目が離せなかった。
気がつけば、もう片方の腕が桃子の腰にするりと回っている。固い腕の感触。おとこのもの、だ。
――ももちゃんは、ヒーローなんかじゃない。
ふいに高い声が、耳の中で回った。その瞬間、
ドンッ。
突き飛ばす両手は震えていた。この間の痴漢ディレクターにはもっと毅然とできたのに。自分が震えていることが、悔しい。
そう思ったら、急にぐわりと感情が昂ぶった。
ひと一人分開けた空間。コウがどんな顔をしてるのかなんてわからないし、知りたくもない。
「……帰りますっ」
逃げるようにコウの横をすり抜けて、玄関へと下りる。扉を開いて、目の前のエレベーターに飛び乗った。
無機質に下降するエレベーターのなか、桃子はへなへなと座りこんだ。