ヒーローに恋をして
映画撮影
『トランジション・ラブ』

 今日から撮影が始まる映画のタイトルだ。二十代から三十代の女性がメイン読者層の漫画が原作で、公開前から話題を呼んでいる。劇場公開は八ヶ月後の十二月だと聞いた。

 主人公ナオトはバスケットチームの実業団に所属する青年。けれど所属先の会社が吸収合併にあい、合併先の意向で実業団解散の話が持ち上がる。解散を推し進めているのは合併先のキャリアウーマン、ユキ。

 バスケでトランジションというと、攻撃権がくるくる変わるゲームのことを指す。どちらも一歩も引かずに主張しあって反目し合う二人の恋愛模様が、この映画のメインになる。

 主演はコウ、相手役のユキを演じるのはアイドルのユリア。アイドルといっても桃子と同じくらいの年齢で、おとなかわいい容姿と抜群のスタイルが人気の女の子だ。

 会議室の隅で、桃子はハンディカムカメラを回していた。スタッフと出演者の初顔合わせになる今日は、映像制作会社での本読みがメインだった。テーブルに並んで座った出演者たちが台本通りに音読を行う。出演者以外のスタッフはその後ろ、壁際に沿って置かれたパイプ椅子に並んで座り、それぞれ台本にメモを加えたりスマホでメールを打ったりしている。

 桃子の持つカメラは、パイプ椅子に足を組んで座って台本を読むコウをズームインする。今日からずっとこうやってメイキング映像やオフショットを撮影して、後にファンクラブ特典に使うのだ。どこも同じことを考えているのか、対角線上ではユリアの事務所の現場マネージャーがユリアを撮影していた。

「キャッ」
 そのユリアが声をあげた。淡々と行われていた本読みの空気が、ぷつりと遮られる。

 ユリアは猫のようにキュンと上がった釣り目でぐるっと周りを見て、
「すいません」
 小さく両手をあわせてへへっと笑った。
「なんか、虫? いたみたいで。びっくりしちゃった」
 てへ、とかわいく舌を出して笑う。プロデューサーの林がへらっと笑った。
「大丈夫だった? ユリアちゃんの肌に虫刺されでもできたら大変だもんな」

 人気アイドルへのゴマすりなのか、単に彼女のファンなのか。ヤニ下がった目元から判断するに、おそらく後者だろう。ユリアも慣れたもので、ニコニコと笑って大丈夫です~と返事をする。

「いいから次に進んだら?」
 白けた表情でそう言ったのはマリコだ。五十をいくつか過ぎたベテラン女優。歯に衣着せぬ物言いで視聴者からの評判は良い一方で、裏ではスタッフを怒鳴りつけることもある気性の激しさで有名な女優でもある。そのマリコの苛立ちを含んだ声に、林もサッと笑みを消して顔を強張らせた。ユリアも気まずげに目を伏せる。
 
 ひりっと緊張感に包まれた室内。スタッフ同士も、そっと視線を見交わす。
 そのなかで、

「勘弁してくださいよぉ」

 ふいに間延びした声が響いた。腹から出ているのがわかる大きな声量に反して、声音は角が取れたような丸みを帯びている。視線をどこに置いていいかわからず困惑していたスタッフたちは、ハッと彼を見た。

 二つに折った台本を片手に、コウはにこりと笑みを浮かべた。
「今の、もうちょっと早口の方がいいですか?」
 笑んだままの目はマリコを見ている。桃子は膝の上に置いた台本を見た。シーン四。上司に無理を言われたナオトの台詞だった。

「演じることは初めてなので、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします」

 コウはぐるりと周りを見回して、そのまま深く頭を下げた。コウをじっと見ていたマリコは手元の台本に視線を移すと、
「ま、悪くないんじゃない? ナオトってちょっと馬鹿っぽいしね」
 言い方はそっけないけれど、唇の端は上向いている。コウは笑ったまま、
「馬鹿っぽいですかぁ?」
「うん、そう。でもその感じがうまく出てるわよ」
「あんま褒められてる感じしないなー」
 大げさに笑って周りのスタッフを振り返れば、スタッフたちも安心したように笑う。目を伏せていたユリアもホッとしたように笑みを浮かべた。

「それじゃあ」

 それまで黙っていた城之内がゆっくりと口を開いた。
「続けます。シーン五、これユキが部屋で寝転がってるんだけどね」
 城之内はユリアに説明を続ける。その横でマリコが再びコウになにか言ったらしく、コウとその近くにいた出演者が小さく笑い合っている。
 
 やっぱり知らない人みたいだ。
 
 昨日も思ったことをもう一度思う。

 笑顔でさらりと、お姫さまのピンチを救う。
 コウは、ヒーローだ。
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