ヒーローに恋をして
 桃子が事務所に戻ったのは九時を過ぎた所だった。台本読みの後はスタジオを移動してCM撮影と雑誌社のインタビュー。宇野がどれほど営業してるとしても、大手代理店とのコネが薄いスター・フィールドの新人がこんなに注目されるなんてありえない。やっぱりモデルのコウの影響は大きいようだった。

 コウをマンションまで送り届けて、ようやく一人になれた桃子は息を吐きながら来客用のソファに座りこむ。
「あ~、つかれた」
「お疲れさん」
 パソコンから顔を上げて宇野がニヤリと笑う。他のスタッフは全員現場に出てるか退社してるかで、事務所にいるのは宇野だけだった。
「どうだった?」
「どうもこうも」
 閉じた瞼に拳を乗せると、固いマスカラの感触がした。久しぶりに化粧をしてるから。きっともう、ドロドロに溶けてるだろうけど。
「宇野さん」
「なに」
「やっぱり辞めたいです」
「アホか」
 カチャカチャとパソコンのキーを叩きながら、宇野が苦笑する。
「十二年がんばってたろう。マネージャーだってもうちょっとやれるだろ」
 足を床につけたまま、上半身だけべたりとソファに倒れた。ヘビースモーカーがいる所為か、ソファはたばこの匂い沁みこんでいる。

「がんばったっていうか」
 意地だ。見えない相手と、ずっと競争してるみたいな。
 そんなマイナスの感情で仕事したって、うまくいくわけない。だから売れない。負のスパイラルから、抜け出せなかった。

 無意識に閉じていた目は、スマホの甲高い呼び出し音で再びこじ開けられた。
「ほら、仕事しろー仕事」
 宇野がパソコンから目を離さず言う。のろのろと起き上がってスマホを見て、ふーと小さく息を吐いた。
「はい」
『ももちゃん?』
 さっき別れたばかりの声が、耳元で聞こえる。ずるずるとソファの背もたれに背中を預けて、
「はい。なんですか?」
『ちょっとヤバいかも』
 低い声が囁くように言う。同時に、金具が擦れるような耳障りな音が聞こえた。背中をソファから離して起きあがる。
「コウさん?」
『おねがい、すぐ来て』
 ガタンッとなにかがぶつかったような音。直後、通話はプツリと切られた。ツーツーと機械音だけが無機質に響く。
「トウコ?」
 パソコンから顔を上げた宇野が尋ねる。桃子はかまわずソファから立ち上がると出口へと向かった。
「ちょっと、いってきます!」
< 17 / 99 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop