ヒーローに恋をして
「……それで、なにしてるんですか?」

 運動不足だ。これくらいで息が上がるなんて。玄関の扉に手をついて、桃子はコウを見た。
「なにって、見てわかんない?」
 コウが振り返って尋ねる。黒いカフェエプロンをつけて、片手で鍋をお玉でゆっくりとかき回していた。カレーの良い匂いが鼻先を漂う。
「夕飯作ってるんだよ」
「……そうですね」
 はぁ、と長い息とともにずるずると座りこむ。ももちゃん? とのんびりした声がキッチンカウンターの向こうから聞こえる。
「ね、ももちゃんも味見してよ」
 鍋をかき回したお玉をすすりながら、うん、やばいと言って頷いている。
「……日本語は正しく使ってください」
 低く呟くと、コウがキョトンとした顔をした。
「ちがうの? 日本の若者は、ヤバイをyammyとかawesomeって意味で使うって聞いたんだけど」
 ああそうか、と諦めとともに思う。
 このひとは、ずっと外国にいたんだった。

 ふっと昨日見た資料の写真がよみがえる。桃子の知らない十二年間。コウを培ってきた言葉、ひと、国。
 やっぱり彼はもう、桃子の知ってるこうちゃんじゃないと再認識する。

「いいから、ほら座って」
 コウは片手を振って椅子を示す。
「いえ、用がないなら」
 扉から手をゆっくりと離す。
「帰ります」
 ピッ。コウが電気コンロの電源を切ると、引出しから食器を取りだす。
「向こうにいたときは」
 大きな指先が、白い平皿を二枚並べていく。

「夜は家族の時間だったんだ。どんなに忙しくても、ホームに帰ってきたらネガティブなことは忘れてリラックスする。それが人生を楽しくする秘訣だよ」
 ね、と笑いかけるコウに眉を寄せる。
 私はあんたの家族じゃない、そう言ってやろうとして、

 グルルルゥ。

 匂いに刺激を受けたおなかが空腹を訴えた。かあっと顔が熱くなる。
「ほら」
 クスクスと笑うコウが近づいてくる。あっと思うより早く、腕を捕まれた。

「おいでよ」

 眉の下まで伸びた前髪の向こうで、目が柔らかに笑っている。睫毛と前髪がいくつもの影を作っていた。

 なぜかそれ以上見ることができなくて、パンプスを脱ぐことに意識を向ける。ストラップを外すのがもたつくのは、ただ慣れないからだ。それ以外の理由はない、と唇をかみしめた。
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