ヒーローに恋をして
「どう?」
腰かけたダイニングテーブルの向かいで、コウがニコニコと笑う。カレーはたしかにおいしかった。市販のルーは使わず、色々な調味料をミックスさせて作ったらしい。
「隠し味に赤ワインを入れてるんだ。これ」
テーブルの端に置いてあるワインボトルを引き寄せる。いつの間にか用意されていた空のグラスに、赤い液体がポトポトと注がれる。
「あ、お酒は」
慌てて言う。車で来てるから、お酒は困る。
「ん? でもカレーに入っちゃってるし。今さらじゃない?」
そうなんだろうか? 飲んでなくても飲酒運転になるんだろうか。考えてる間に、グラスにワインが並々と注がれた。コウがにこりと笑ってグラスを持つ。
「乾杯!」
反射的にグラスを持ち、縁を付け合せてしまう。とっさにここから家までの電車賃を算段した。大したダメージにならないと結論付けると、諦めてグラスに口をつけた。
「……おいしい」
「でしょ?」
おもわず零れた言葉を拾ったコウがにこりと笑う。
「ももちゃん、あんまお酒飲まない?」
「いや、飲むんですけどビールばっかで」
「ワインいいよ。体にいいし、美容にも」
コウの手がこちらに伸びて、長い指先が桃子の目の下を撫でた。
「あ、やっぱカサカサ。ちゃんと化粧落として寝てる? 美容液なに使ってるの」
驚きに固まっていると、コウは真面目な顔で続けた。
「ももちゃんもう二十五なんだからさ。カメラの前に立つなら、ちゃんとケアしないと」
親指がすっと離れる。無意識に止めていた呼吸を再開して、笑顔を作る。
「カメラの前なんて、もう立ちませんから」
そう言うと、残っているワインをひと息に飲みほした。コウがこっちを見る、その視線に気がつかない振りをする。
沈黙の後、コウがひらべったい声を出した。
「本当にそれでいいの?」
コウのきれいな目に鋭さが加わる。ガラスでできたナイフのようだった。
「ももちゃんさ、どうして売れないのか、自分でちゃんと考えたことある? 子役のイメージがどうとかじゃないと、俺は思ってる。服や肌を気にしなかったり、アピールすべき時にちゃんと手を挙げなかったり。そういうことの積み重ねなんだよ」
コウの言葉が、ワインと一緒におなかの中を熱く刺す。ふらりと頭の中に映像がちらつく。モデル時代のコウの写真。記者会見での堂々とした振る舞い。
彼は成功者だ。
そして自分は十二年間の芸能活動の末に、彼のマネージャーになった。
「なにも知らないのに、勝手なこと言わないでください」
目をそらすと、カーテンを引いてない窓から昨日と同じ都心の夜景が見えた。桃子のアパートから見えるのなんて、裏にあるインド料理店の看板くらいだ。
一体、なにをやってるんだろう?
ふいにむなしさがこみ上げて、瞬間的に膨らんだ熱は萎んでいった。
「わかるよ」
ふいに投げられた言葉に、ゆっくりと振り返る。コウは桃子をじっと見ていた。
「ももちゃんのことは、わかるよ」
頬に熱が集まっていく。きっとこれは、飲んだワインの所為だ。喉の奥が熱いのも、なんだか落ち着かなくなってきたのも。
「そうですか? 私には、コウさんが全然わからないですけどね」
妙に緊張している自分をごまかしたくて、ワインをひと息に流し込む。たちまち耳の中と胸の辺りが熱くなった。
「いい飲みっぷり」
くすりと笑って、空のグラスにコウがワインを注ぐ。わんこそばじゃないんだから、と思いつつ、沈黙を埋めるようにそのグラスを口元へと持っていく。甘くて酸味があって、やわらかな液体がするすると喉奥に流れていく。
「ももちゃん、お願いがあるんだけど」
「なんですか」
「本読みに付き合ってくれないかな」
コウが穏やかに笑う。ほんよみ、ほんよみと心の中で繰り返して、言われたことを理解する。
「いいですよ」
次回から本格的な撮影に入る。演技初心者のコウが共演者たちの足を引っ張らないためにも、練習は必要だ。
「それじゃ、早速今からやりたいんだけど」
言いながらコウが椅子を引いて、こちらへと回りこんだ。
「あっちでやろう」
窓際のソファを目で示しながら、桃子の椅子の背もたれに手を添える。屈みこまれるような態勢に動揺して、ワイングラスをぎゅっと掴んだ。
「あの、これ、持ってってもいいですか?」
おもわずワイングラスを突きつけるように見せた。意外そうに目を丸くしたコウは機嫌良さそうに頷いて、
「もちろん。それ気に入った?」
するりと桃子の腕をつかむと、椅子から立ち上がらせた。
べつにワインが好きなわけじゃない。それでも空手で向かい合う気にはなれなくて、黙ってこくりと頷いた。
腰かけたダイニングテーブルの向かいで、コウがニコニコと笑う。カレーはたしかにおいしかった。市販のルーは使わず、色々な調味料をミックスさせて作ったらしい。
「隠し味に赤ワインを入れてるんだ。これ」
テーブルの端に置いてあるワインボトルを引き寄せる。いつの間にか用意されていた空のグラスに、赤い液体がポトポトと注がれる。
「あ、お酒は」
慌てて言う。車で来てるから、お酒は困る。
「ん? でもカレーに入っちゃってるし。今さらじゃない?」
そうなんだろうか? 飲んでなくても飲酒運転になるんだろうか。考えてる間に、グラスにワインが並々と注がれた。コウがにこりと笑ってグラスを持つ。
「乾杯!」
反射的にグラスを持ち、縁を付け合せてしまう。とっさにここから家までの電車賃を算段した。大したダメージにならないと結論付けると、諦めてグラスに口をつけた。
「……おいしい」
「でしょ?」
おもわず零れた言葉を拾ったコウがにこりと笑う。
「ももちゃん、あんまお酒飲まない?」
「いや、飲むんですけどビールばっかで」
「ワインいいよ。体にいいし、美容にも」
コウの手がこちらに伸びて、長い指先が桃子の目の下を撫でた。
「あ、やっぱカサカサ。ちゃんと化粧落として寝てる? 美容液なに使ってるの」
驚きに固まっていると、コウは真面目な顔で続けた。
「ももちゃんもう二十五なんだからさ。カメラの前に立つなら、ちゃんとケアしないと」
親指がすっと離れる。無意識に止めていた呼吸を再開して、笑顔を作る。
「カメラの前なんて、もう立ちませんから」
そう言うと、残っているワインをひと息に飲みほした。コウがこっちを見る、その視線に気がつかない振りをする。
沈黙の後、コウがひらべったい声を出した。
「本当にそれでいいの?」
コウのきれいな目に鋭さが加わる。ガラスでできたナイフのようだった。
「ももちゃんさ、どうして売れないのか、自分でちゃんと考えたことある? 子役のイメージがどうとかじゃないと、俺は思ってる。服や肌を気にしなかったり、アピールすべき時にちゃんと手を挙げなかったり。そういうことの積み重ねなんだよ」
コウの言葉が、ワインと一緒におなかの中を熱く刺す。ふらりと頭の中に映像がちらつく。モデル時代のコウの写真。記者会見での堂々とした振る舞い。
彼は成功者だ。
そして自分は十二年間の芸能活動の末に、彼のマネージャーになった。
「なにも知らないのに、勝手なこと言わないでください」
目をそらすと、カーテンを引いてない窓から昨日と同じ都心の夜景が見えた。桃子のアパートから見えるのなんて、裏にあるインド料理店の看板くらいだ。
一体、なにをやってるんだろう?
ふいにむなしさがこみ上げて、瞬間的に膨らんだ熱は萎んでいった。
「わかるよ」
ふいに投げられた言葉に、ゆっくりと振り返る。コウは桃子をじっと見ていた。
「ももちゃんのことは、わかるよ」
頬に熱が集まっていく。きっとこれは、飲んだワインの所為だ。喉の奥が熱いのも、なんだか落ち着かなくなってきたのも。
「そうですか? 私には、コウさんが全然わからないですけどね」
妙に緊張している自分をごまかしたくて、ワインをひと息に流し込む。たちまち耳の中と胸の辺りが熱くなった。
「いい飲みっぷり」
くすりと笑って、空のグラスにコウがワインを注ぐ。わんこそばじゃないんだから、と思いつつ、沈黙を埋めるようにそのグラスを口元へと持っていく。甘くて酸味があって、やわらかな液体がするすると喉奥に流れていく。
「ももちゃん、お願いがあるんだけど」
「なんですか」
「本読みに付き合ってくれないかな」
コウが穏やかに笑う。ほんよみ、ほんよみと心の中で繰り返して、言われたことを理解する。
「いいですよ」
次回から本格的な撮影に入る。演技初心者のコウが共演者たちの足を引っ張らないためにも、練習は必要だ。
「それじゃ、早速今からやりたいんだけど」
言いながらコウが椅子を引いて、こちらへと回りこんだ。
「あっちでやろう」
窓際のソファを目で示しながら、桃子の椅子の背もたれに手を添える。屈みこまれるような態勢に動揺して、ワイングラスをぎゅっと掴んだ。
「あの、これ、持ってってもいいですか?」
おもわずワイングラスを突きつけるように見せた。意外そうに目を丸くしたコウは機嫌良さそうに頷いて、
「もちろん。それ気に入った?」
するりと桃子の腕をつかむと、椅子から立ち上がらせた。
べつにワインが好きなわけじゃない。それでも空手で向かい合う気にはなれなくて、黙ってこくりと頷いた。