ヒーローに恋をして
「シーン七の頭から、いいかな」

 ソファに背を預け、立てた片膝の上に腕を乗せるコウは、ただ座っているだけなのに絵になった。滲んだマスカラで目元を汚し、ワインで真っ赤になった自分とは大違いだ。

 半分に折った台本を、コウは何度も目で追っている。いいかな、と言った割に始める気配はない。少し様子を見ていた桃子も、やがて膝に乗せた台本へと目を落とした。

 シーン七。ナオトとユキの出会いのシーンだ。
 実業団の存続を訴えるナオトと、冷たく断るユキ。お互いの第一印象は最悪。

ナオト「どうしてわからないんだよ」
ユキ 「わかる必要もありません。その汚いボールをもって、さっさと出て行ってください」

 役の台詞を見て、おもわず苦笑する。ユキはずいぶん辛辣な女だ。これをあのユリアが演じるのかと思うと、ちょっと想像がつかない。

「新しいビジネスリーダーって、あんたか」

 ふいに隣で声がした。顔を上げる。

 どきり、と胸が鳴った。

 射るような眼差し。前髪の向こうからこちらを見る双眸に、傲慢さと情熱が潜んでいる。

 魅入られたように茫と相手を見る。直後、はっとして台本を見た。並ぶ文字を急いで追いかける。
 
「そうよ。あなたは誰?」
「俺はスペーシアのキャプテン、ナオト。あんたに話がある」
 相変わらずの不遜な話し方で、コウは答えた。

 演じている。コウが、ナオトを。胸がどくどくと騒ぐ。
 さっきの本読みの時とはまるでちがう。馬鹿っぽい演技がうまいって、なんだそれ。

 役者として充分通用するじゃないか。
 
「話すことなんてなにもないわ。忙しいの、出て行ってくれない」
「いいから話を聞いてくれよ」
 ナオトの後ろに会議室が見えた。蛍光灯の無機質な光に照らされた室内で、怒りに煌めく目。

 平常時のナオトはあっけらかんとした、チームのムードメーカーだ。マリコが言ったように、ちょっと馬鹿っぽいところもある。
 だけど今はちがう。瞳に宿る怒りが、彼を傲慢な男に見せている。
 
 ナオトから目をそらして台本のページを捲る。向かい合っていると、彼のペースに底なしに引きずられてしまいそうだった。

「用事がある時はまずメールで。アポイントが必要なら秘書の常川を通してください」
「ももちゃん」

 ふいに落ち着いた声が流れを切る。顔を上げると、コウが薄く眉間に皺を寄せていた。
「なんか変。ユリアちゃんのマネしてない?」
 コウの指摘に、とまどいながらワイングラスに手を伸ばした。
「はい」
 駄目ですか? という意味をこめて相手を見返す。
「相手役に似せた方がいいんじゃないですか? その方が本番もやりやすいと思うし」
 
 ユリアの声は桃子より半オクターブ高い甘いソプラノ声だ。そしてアイドルという商売柄か、少し舌ったらずに話す。今日の本読みを聞いていてもそんな感じだったから、できるだけ再現したつもりだった。

 そう答えると、コウが呆れたようにソファにもたれかかった。
「そんなこと、しなくていい。俺はももちゃんと本読みやってるんだから」
 その言葉に、内心首を傾げる。たとえ今桃子と本読みをしていても、実際演技をするのはユリアだ。現場に行って練習とイメージが変わる方がまずいだろう。

 思いが顔に出ていたのか、コウは唇の端を上げて笑った。
「それとも、ももちゃんは自分の演技はできないの?」
 挑発のような言葉に、頬と耳が熱くなる。なんでこんなこと言われなくちゃいけないんだろう?

 自分でも意外なほど、演技を馬鹿にされたことに腹が立った。ついさっき、カメラの前には立たないと言ったばかりなのに。
 手に持っていたワインを、ひと息に煽る。熱い液体が体内をぐるりと回って、エネルギーがチャージされた気がした。

 繊細なワイングラスを、やや乱暴な手つきでローテーブルへと置く。じろり、とコウを見据える。

「やってやろうじゃない」

今まで頑なに守っていた言葉遣いが変わったことにも気がつかなかった。くらりと胃の中で赤ワインが揺れて、体中が暑い。それなのに意識はハッキリしていた。

 桃子の視線をまっすぐに受け止めたコウは、にやりと不敵な笑みを浮かべた。


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