ヒーローに恋をして
 膝に置いた台本。書き込みのない真っさらなそれを、初めて目にするようにじっくりと読む。

 ユキは気が強い女王様。アメリカの大学をスキップして、若くして一流企業に就職した、挫折を知らないキャリアウーマン。
 だれもユキには逆らわない。逆らわない代わりに、だれも真剣に怒ってくれない。支えてくれない。
高級な肘掛け椅子に座る女王様が、本当は誰より弱虫で傷つきやすいことに、誰も、当のユキさえも、気づいてない。

 トウコちゃん、メモ。

 頭の中で、なつかしい声が命じる。自分をまじまじと見つめた腹の出た男の顔が、十三歳の桃子に、くしゃくしゃによれた台本を丸めて指示していた若き監督へと巻き戻っていく。

 言われたこと全部メモするんだ。わからなかったら俺に聞いて。書いたメモ見せてみろ。ちがってたら教えるから。

 回ごとに渡される台本はどれも鉛筆で真っ黒になっていた。台本に触った手の側面や指先も黒くなって、そのたびにメイクさんに手を拭いてもらった。

 記憶が桃子を後押しする。台本の隅に、言葉を埋める。桃子が感じたユキの性格、素顔。表に出すこと、出さないこと。当然わからないことが多い。そこはだから、想像する。
 演じる余地がうまれる。

 目を閉じて、ユキの顔を想像してみる。さっきまではユリアだったけど、仕方ないから自分を当てはめる。
 本当は慣れないヒールを履いて、意地を張って信念を通そうとする。あまり笑わない。怒ったような顔で、唇をグッと結んで。

 ――ああ。彼女はまるで。

「ユキってかわいい人だよね」

 黙っていたコウが、ふいに呟く。目を開けて振り返ると、さっきとはちがうどこか優しい眼差しが桃子を見ていた。
「まぁ、ユリアちゃんが演るんですからね」
 没頭するように目を閉じているところを見られていたことが恥ずかしくて、ごまかすようにそっぽを向く。かすかにコウが笑う気配がして、それに気がつかない振りをして言った。

「それじゃ、はじめましょうか」
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