ヒーローに恋をして
 長い息を吐いて、桃子はソファにべたりと頭をつけた。
「オッケー。ありがとう、すごくよかった」
「そうですか……」
 力なく答えて目を閉じる。ひどく喉が渇いた。

「はい、ももちゃん」
 桃子の考えを読むように、再びなみなみと注がれたワイングラスを手渡される。迷わず受け取り、スポーツドリンクのようにひと息に飲みほす。カッと喉の奥が熱くなった。

 ふしぎなおとこだ。

 ぼやりと熱をもった瞳で、コウを見返す。
 演じてるときのコウはこわかった。
 いやちがう、と浮かんだ考えを訂正する。

 正確には、コウと演じたときの自分が恐かった。

 向かい合って台詞を言って、コウの目を見て。そんなことをしているうちに、コウによってどこか見たことのない場所まで飛ばされてしまうような気がした。それに抗おうと、いままで感じたことのない熱が意識の深いところから湧きあがってきた。
 熱が役を生み、ユキが姿を現した。あの一時、たしかに桃子はユキだったし、コウはナオトだった。

 目を閉じたまま、無意識にワイングラスを頬にあてる。熱い頬にグラスの冷たさが心地いい。

 コウはきっと、良い役者になる。
 
 ふっと息を吐くと、そのまま身体がソファに沈みこむ。摂りすぎたワインが体を内側からとろりと溶かす。もう目を開けるのも億劫だった。
 
「ももちゃん? 水もってこようか」
 その言葉に、微かに顎を揺らす。なんだかやけに、あつい。四月だっていうのに、暖房でも点けたんだろうか。
「点けてないよ。ももちゃんが酔ってるだけ」
 考えを口にしていたらしい。コウがどこか愉しげにクスクスと笑う。桃子は反論もできず目を閉じていた。

 しばらくすると、ほら、とすぐ近くで声がした。
「飲んで」
 のろりと目を開ける。ワイングラスじゃない。コウがガラスコップに注がれた水を差しだしていた。ぎこちなく受け取ると、
「ちょっと前まで、あんなにキリッとしてたのに」
 コウが楽しそうに笑う。
「やっぱり、ももちゃんは役者なんだね」
 こくり。冷たい水が喉を落ちていく。知らぬ前に上がっていた肩の力が緩んだ。

 役者?
 
「コウさんの演技に、あてられただけ。私の力じゃないですよ」
 頬があつい。目元がじわりと熱いのも、きっとお酒のせいだ。
 
 それに。
 ふわりと、口の中から言葉がこぼれる。
「それに、こうちゃんは嫌いでしょう? 私のお芝居は」

 自分がなにを言っているのか、わかってなかった。カラン。掌のガラスコップに落とされた氷が、音をたてる。また目を閉じた。

 閉じた瞼の裏側に、ちりっと映像が浮かぶ。弾丸のように飛んでいったバスケットボール。その向こうに立つこうちゃんの、まっすぐな目。
 小さな唇が開いて、桃子に向かって言う。

 ももちゃんは、ヒーローなんかじゃない。
 
 ふいに固い感触に包まれて、閉じていた目を開く。
 あまりなにも見えなかった。鼻先に、シャツ。独特の甘い香水の匂いが、鼻孔に漂う。
 
 ――――え?

 両手にもつガラスコップごと、コウに抱きしめられていると理解するまでに数秒かかった。反射的に身じろぐと、動きを制するように強く抱きこまれる。
「…………ちょっ」
 水が入ったままのガラスコップを離すことはできなくて、肘をつかって身を捩る。桃子の肩甲骨の後ろで交差されている、大きな手。固い腕と、嗅いだことのない甘い香り。くらり、と脳が揺れる。
 
「ももちゃん」

 耳元で囁かれる声は甘く低く、なぜか懇願するような響きがあった。
 ふいに強張っていた力がぬける。
 
 抵抗が止んだからか、コウがゆっくりと抱きしめる力をぬいた。こちらを覗きこむ顔は、出口の見えない洞穴を前にした子どものように途方に暮れていた。
「ももちゃん、俺――」

 ああ。
 
 やっぱりこうちゃんなんだ。唐突に思った。こんな風に困ったように、縋るように桃子を見てきたことが何度もある。

 大丈夫だよ。

 安心させるように手を伸ばした。あの時と同じ、柔らかな髪を撫でる。自然と笑みが浮かんでいた。

「こうちゃん」

 酔いを含んで水飴のように蕩けた目で、桃子は笑う。こうちゃんに、笑いかける。

 コウが目を見開いた。直後目を眇めて、その後どうしてだか怒ったような顔で乱暴に桃子を引き寄せて――。

 覚えているのはそこまでだった。
 
 連日の疲れと緊張と、大量摂取のワインと。
 桃子は意識を手放した。
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