ヒーローに恋をして
「こうちゃん!」
大声を出す。ぼんやりと俯きがちに立っていたコウが、ハッと顔を上げた。胸がうれしくて音を鳴らす。
こうちゃん。ひさしぶりのこうちゃんだ。
コウは青葉に抱きあげられている桃子を見ると、目を大きくした顔のまま固まっていた。
こうちゃん、驚いてる。
浮かれた気もちのまま大きく手を振った。青葉が暴れるなよ、と苦笑した。
会わない間に背が伸びたのだろうか。コウの周りに立っている男の子たちと身長があまり変わらないように見えた。
おもいがけない変化に驚いたけれど、コウの両手に抱えられたバスケットボールに気がつくと頬が緩む。
ちゃんと練習してるかな。男の子たちにいじめられてないかな。ドリブルは上手になったかな。
聞きたいことが、たくさんある。
青葉の腕から飛び降りた桃子はコウのもとへと駆け寄った。子どもたちの叫び声や、シュンくーんと名前を呼ぶ声がわんわん響く。
「トウコちゃん、ダメだよ」
あともう少しというところで、ADが桃子の腕を掴んで止める。
「だって」
こんなに近くにいるのだ。もうすこしも待てない。
捕まれた腕を振り払おうとすると、
「トウコちゃん、なにしてんの」
青葉が呆れた声を出して、桃子の両脇の下に手を掬い入れてADから引き離した。青葉が来たことで、歓声がひときわ大きくなる。
「見つかった? 探してた子」
青葉が桃子を引き寄せたまま尋ねる。桃子は頷いて、コウを振り返った。
振り返って、驚いた。
コウはぐっと唇を真一文字に結んで、今まで一度も見たことのない顔で桃子を見ていた。
引き寄せられた眉、警戒したような目つき。桃子が怪しい大人に立ち向かった時にするような顔で、桃子を見ていた。
「……こうちゃん?」
「ももちゃんは……女の子なのに」
歓声のなか、小さな呟きが桃子の耳に届く。いつもの柔らかさがない、なにかを押し殺したような低い声だった。
問うようにコウを見返す。聞きまちがえたのかもしれない、と思った。
その桃子にむかって、コウはさっきより大きな声で言う。
「男の子の振りしてテレビ出て、すっごく変。おかしいよ」
反射的に自分の格好を見下ろす。
青地に白い星のくり抜きが胸元にあるモビルスーツ。金色と青の凝ったデザインのベルト。
ヒーローの格好。
とまどって幼なじみを見返した。だって、かっこいいって言ってたじゃない。プラネットが好きだって。
だから。
だから私は。
「ももちゃんは、ヒーローなんかじゃない。ヒーローなんて似合わない」
コウの目が冷たく光って、そこからまっすぐに槍が放たれたみたいだった。言われたことがわからない。それなのに心はちゃんと言葉を受け止めて、苦しくなった。
無意識に片側の足を引くと、その拍子にバランスが崩れた。転びかけたところを、青葉が後ろから抱きとめてくれる。
「君、なんてこと言うんだ。トウコちゃんは一生懸命」
ヒュン。
その瞬間、茶色いボールがまっすぐにこちらに飛んできた。風を切る弾丸のようなボールに、周りから叫び声が上がる。
「うわっ」
驚いた青葉が桃子から手を離して、脇へ反れる。ボールは桃子のすぐ後ろで勢いよく跳ねて、遠くで作業しているスタッフが驚いた声をあげた。
「こら、危ないだろ!」
ADがコウを怒鳴る。桃子は固まったまま動けなかった。胸が体の中でどくどく鳴っている。
速くて力強いボール。ドリブルの練習に付き合った時とは全然ちがう。あれが。
私にむかって、飛んできた。
ざわり、と短く切った襟足の下で鳥肌が立った。
コウがじっと桃子を見ている。やっぱり笑ってない顔で。黒目が黒曜石のように、ひんやりと冷たくて静かだ。
こうちゃん、どうしたの?
言葉が喉の奥で張りついている。
自分がいない間に、この子になにが起きたんだろう。
「トウコちゃん」
青葉が桃子に手を伸ばす。その直後、コウが固い声を出した。
「もう、守ってほしくなんてないんだ」
「……こうちゃん?」
野次馬たちが、桃子とコウのやり取りを興味深げにジロジロと見ている。スタッフも、怪訝そうな顔で様子を窺っている。
だけど桃子は気にならなかった。胸の真ん中が、ざわざわと震えている。
「僕、バスケうまくなったよ。背も伸びた。もう守ってもらわなくて、大丈夫なんだ」
ぶれることのない黒曜石の目を、ただ見つめ返すしかできない。
「僕、転校するんだ。アメリカに行くの」
「…………え?」
アメ、リカ? 唐突に告げられた言葉に目を見張る。
視界の隅で、ADがバスケットボールを拾い上げるのが見えた。そのオレンジのような茶色のような色が、やけに鮮やかに目に映る。
あれが投げつけられた。桃子に向かって、力いっぱい。
拒絶されたんだ。
ようやく理解する。
掌を返したように冷たい目をした幼なじみをぼうっと見る。
どうして? 外国に行くから? だから、もう私のことは必要ないの?
浮かぶ疑問が、ぱちんぱちんと弾けては胸に沈みこむ。そうだよ、なんて言われたらもう、生きていけない気がした。
コウが桃子を見たまま、口を開く。
「いつか日本に帰ってくるよ。だから、それまで」
「トウコ」
ふいに大きな声が名前を呼んだ。宇野がペットボトルを片手に桃子のもとへと歩いてきた。
「なにしてんだ? もうすぐ撮影始まるぞ」
「……宇野さん」
ぽつり、かすれた唇から言葉がこぼれる。
「喉渇いたろう。水分取っとけ」
桃子が集めているキャラクターのキャップがついたペットボトルを手渡される。ぼうっとそれを見た。
ヒーローになりたいか?
いつかの、宇野の言葉が頭をよぎる。
きみもヒーローになれるよ
「トウコ?」
ぎょっとした宇野の声に、顔を上げる。顎が上がった瞬間、冷たい感触がした。ぱらり、と雨粒のように頬をつたう雫。
「トウコちゃん、大丈夫?」
青葉が心配そうに桃子を覗きこむ。二人の顔を交互に見て、そのままのろのろと自分の頬に触れた。
涙が頬を流れる、つめたい感触。
泣いてる、と理解するまでの空白。
「ももちゃん」
それまでとはちがう、なにか芯が折れたような弱い声がした。耳に馴染みのある、幼なじみの声。
コウの顔が、涙の膜に遮られて見えない。
「今冷やすもん持ってくるから」
宇野が慌てたように言って、ロケバスの方へと走っていく。入れ違いにメイクスタッフが化粧道具を持って駆け寄ってきた。あっという間に前髪をクリップで留められて、こっち見て、といつものように指示される。バタバタと走り回る何人分もの足音。野次馬たちが、泣いてる桃子をよく見ようと騒いでいる。撮影禁止です、と注意する声。
「トウコちゃん、こっち向いて」
メイクスタッフの声を無視して、コウを振り返る。
ああ、やっぱり泣きそうな顔してる。
その顔を見てしまったら、ショックで凪いでいた心がぎゅんと揺れた。
「こうちゃん」
コウの目がハッと見開かれる。束の間、桃子とコウは見つめ合った。
自分とコウを結んでいた糸がゆるゆると解けていくのがわかる。そうならないための言葉を探しているのに、出てこない。
アメリカに行くの。
コウの声が頭を回る。
外国じゃ、日本のヒーロー番組なんて、きっと見れないね。
こうちゃんに、届かない。
ああそうか。
お別れなんだ。
今日こうちゃんが、来てくれた意味がわかった。
「さよなら、こうちゃん」
そう言うと、コウがハッと目を見開いた。その顔を最後まで見ることができなくて、きびすを返す。周囲にあっという間にスタッフが集まってくる。こんなところで泣けない。瞼が熱くなる気配に、唇を固く結んで耐えた。
それがこうちゃんを見た最後だった。
大声を出す。ぼんやりと俯きがちに立っていたコウが、ハッと顔を上げた。胸がうれしくて音を鳴らす。
こうちゃん。ひさしぶりのこうちゃんだ。
コウは青葉に抱きあげられている桃子を見ると、目を大きくした顔のまま固まっていた。
こうちゃん、驚いてる。
浮かれた気もちのまま大きく手を振った。青葉が暴れるなよ、と苦笑した。
会わない間に背が伸びたのだろうか。コウの周りに立っている男の子たちと身長があまり変わらないように見えた。
おもいがけない変化に驚いたけれど、コウの両手に抱えられたバスケットボールに気がつくと頬が緩む。
ちゃんと練習してるかな。男の子たちにいじめられてないかな。ドリブルは上手になったかな。
聞きたいことが、たくさんある。
青葉の腕から飛び降りた桃子はコウのもとへと駆け寄った。子どもたちの叫び声や、シュンくーんと名前を呼ぶ声がわんわん響く。
「トウコちゃん、ダメだよ」
あともう少しというところで、ADが桃子の腕を掴んで止める。
「だって」
こんなに近くにいるのだ。もうすこしも待てない。
捕まれた腕を振り払おうとすると、
「トウコちゃん、なにしてんの」
青葉が呆れた声を出して、桃子の両脇の下に手を掬い入れてADから引き離した。青葉が来たことで、歓声がひときわ大きくなる。
「見つかった? 探してた子」
青葉が桃子を引き寄せたまま尋ねる。桃子は頷いて、コウを振り返った。
振り返って、驚いた。
コウはぐっと唇を真一文字に結んで、今まで一度も見たことのない顔で桃子を見ていた。
引き寄せられた眉、警戒したような目つき。桃子が怪しい大人に立ち向かった時にするような顔で、桃子を見ていた。
「……こうちゃん?」
「ももちゃんは……女の子なのに」
歓声のなか、小さな呟きが桃子の耳に届く。いつもの柔らかさがない、なにかを押し殺したような低い声だった。
問うようにコウを見返す。聞きまちがえたのかもしれない、と思った。
その桃子にむかって、コウはさっきより大きな声で言う。
「男の子の振りしてテレビ出て、すっごく変。おかしいよ」
反射的に自分の格好を見下ろす。
青地に白い星のくり抜きが胸元にあるモビルスーツ。金色と青の凝ったデザインのベルト。
ヒーローの格好。
とまどって幼なじみを見返した。だって、かっこいいって言ってたじゃない。プラネットが好きだって。
だから。
だから私は。
「ももちゃんは、ヒーローなんかじゃない。ヒーローなんて似合わない」
コウの目が冷たく光って、そこからまっすぐに槍が放たれたみたいだった。言われたことがわからない。それなのに心はちゃんと言葉を受け止めて、苦しくなった。
無意識に片側の足を引くと、その拍子にバランスが崩れた。転びかけたところを、青葉が後ろから抱きとめてくれる。
「君、なんてこと言うんだ。トウコちゃんは一生懸命」
ヒュン。
その瞬間、茶色いボールがまっすぐにこちらに飛んできた。風を切る弾丸のようなボールに、周りから叫び声が上がる。
「うわっ」
驚いた青葉が桃子から手を離して、脇へ反れる。ボールは桃子のすぐ後ろで勢いよく跳ねて、遠くで作業しているスタッフが驚いた声をあげた。
「こら、危ないだろ!」
ADがコウを怒鳴る。桃子は固まったまま動けなかった。胸が体の中でどくどく鳴っている。
速くて力強いボール。ドリブルの練習に付き合った時とは全然ちがう。あれが。
私にむかって、飛んできた。
ざわり、と短く切った襟足の下で鳥肌が立った。
コウがじっと桃子を見ている。やっぱり笑ってない顔で。黒目が黒曜石のように、ひんやりと冷たくて静かだ。
こうちゃん、どうしたの?
言葉が喉の奥で張りついている。
自分がいない間に、この子になにが起きたんだろう。
「トウコちゃん」
青葉が桃子に手を伸ばす。その直後、コウが固い声を出した。
「もう、守ってほしくなんてないんだ」
「……こうちゃん?」
野次馬たちが、桃子とコウのやり取りを興味深げにジロジロと見ている。スタッフも、怪訝そうな顔で様子を窺っている。
だけど桃子は気にならなかった。胸の真ん中が、ざわざわと震えている。
「僕、バスケうまくなったよ。背も伸びた。もう守ってもらわなくて、大丈夫なんだ」
ぶれることのない黒曜石の目を、ただ見つめ返すしかできない。
「僕、転校するんだ。アメリカに行くの」
「…………え?」
アメ、リカ? 唐突に告げられた言葉に目を見張る。
視界の隅で、ADがバスケットボールを拾い上げるのが見えた。そのオレンジのような茶色のような色が、やけに鮮やかに目に映る。
あれが投げつけられた。桃子に向かって、力いっぱい。
拒絶されたんだ。
ようやく理解する。
掌を返したように冷たい目をした幼なじみをぼうっと見る。
どうして? 外国に行くから? だから、もう私のことは必要ないの?
浮かぶ疑問が、ぱちんぱちんと弾けては胸に沈みこむ。そうだよ、なんて言われたらもう、生きていけない気がした。
コウが桃子を見たまま、口を開く。
「いつか日本に帰ってくるよ。だから、それまで」
「トウコ」
ふいに大きな声が名前を呼んだ。宇野がペットボトルを片手に桃子のもとへと歩いてきた。
「なにしてんだ? もうすぐ撮影始まるぞ」
「……宇野さん」
ぽつり、かすれた唇から言葉がこぼれる。
「喉渇いたろう。水分取っとけ」
桃子が集めているキャラクターのキャップがついたペットボトルを手渡される。ぼうっとそれを見た。
ヒーローになりたいか?
いつかの、宇野の言葉が頭をよぎる。
きみもヒーローになれるよ
「トウコ?」
ぎょっとした宇野の声に、顔を上げる。顎が上がった瞬間、冷たい感触がした。ぱらり、と雨粒のように頬をつたう雫。
「トウコちゃん、大丈夫?」
青葉が心配そうに桃子を覗きこむ。二人の顔を交互に見て、そのままのろのろと自分の頬に触れた。
涙が頬を流れる、つめたい感触。
泣いてる、と理解するまでの空白。
「ももちゃん」
それまでとはちがう、なにか芯が折れたような弱い声がした。耳に馴染みのある、幼なじみの声。
コウの顔が、涙の膜に遮られて見えない。
「今冷やすもん持ってくるから」
宇野が慌てたように言って、ロケバスの方へと走っていく。入れ違いにメイクスタッフが化粧道具を持って駆け寄ってきた。あっという間に前髪をクリップで留められて、こっち見て、といつものように指示される。バタバタと走り回る何人分もの足音。野次馬たちが、泣いてる桃子をよく見ようと騒いでいる。撮影禁止です、と注意する声。
「トウコちゃん、こっち向いて」
メイクスタッフの声を無視して、コウを振り返る。
ああ、やっぱり泣きそうな顔してる。
その顔を見てしまったら、ショックで凪いでいた心がぎゅんと揺れた。
「こうちゃん」
コウの目がハッと見開かれる。束の間、桃子とコウは見つめ合った。
自分とコウを結んでいた糸がゆるゆると解けていくのがわかる。そうならないための言葉を探しているのに、出てこない。
アメリカに行くの。
コウの声が頭を回る。
外国じゃ、日本のヒーロー番組なんて、きっと見れないね。
こうちゃんに、届かない。
ああそうか。
お別れなんだ。
今日こうちゃんが、来てくれた意味がわかった。
「さよなら、こうちゃん」
そう言うと、コウがハッと目を見開いた。その顔を最後まで見ることができなくて、きびすを返す。周囲にあっという間にスタッフが集まってくる。こんなところで泣けない。瞼が熱くなる気配に、唇を固く結んで耐えた。
それがこうちゃんを見た最後だった。