ヒーローに恋をして
予想外の展開
 桃子はゆっくりと目を開けた。今見たばかりの夢が頭を占めていて、瞼は開いたもののその目はどこかぼんやりと空(くう)を見ている。

 なつかしい、ゆめ。

 目を閉じてフーッと深呼吸すると、こめかみが鋭く痛んだ。朝っぱらから偏頭痛だろうか。両手で頭に手をやって、そうだ、ワイン、と思い出す。

 昨日コウに呼ばれて、家まで行くとカレーを作っていて。
 緩んでいた記憶の糸を手繰り寄せて、徐々に昨夜のことを思い返す。

 一緒にした本読み。ワイングラスに注がれた赤い液体。
 なにか嫌なことを言われた気がする。それで、たしか。

 こうちゃんは嫌いでしょう? 私のお芝居は

 ふいに自分の声が頭の中で再現されてしまい、ギョッとして目を開けた。
 目を開けて、固まった。

 目線の先の天井には、見覚えのないシーリングファンが取り付けてあった。

 慌てて飛び起きて気がつく。体に乗っている、ホテルのような真っ白い掛け布団。桃子の持ってる花柄の布団じゃない。鼓動が速くなって、パニックのまま横を向いて、
「うわぁ!」
 大声が出た。

「……うん?」
 声に反応して、そのひとが掠れた唸り声を上げる。枕の下に挟んでる二の腕が、もぞりと動いた。
「…………!」
 驚き過ぎて、叫ぶこともできない。というより、とっさの防衛本能のようなものだった。
 今起きられたら、非常にまずい。
 
 ドッドッドッと心臓が鼓動を刻む。無意識に胸に手をやって、その手が掴んだ服を見下ろす。昨日と同じカットソー。下に履いてるものもベージュのパンツで、乱れがないことを確認してしまってから恥ずかしくなった。

 いったい全体、どうしてこんなことになってるんだ。

 自分の方を向いて横向きになったままスヤスヤと眠るコウを見ながら、呆然と思う。
 
 思い返すと、昨夜の最後の方の記憶があやふやだ。なにを話したのかも、あまり覚えてない。
 すばやく視線を動かし部屋を見渡す。
 寝室だ。もちろん、コウの。
 
 紺色のカーペットが敷かれた室内には、物があまりない。クイーンサイズらしきこのベッドと、サイドテーブルに置かれたデジタル時計と香水の瓶。壁一面のクローゼットはかなり大きそう。隣に置かれた三段ラックの隣に、バスケットボールが転がっていた。

 ふいに、見ていた夢を思い出す。こちらに向かって投げられた、弾丸のようなバスケットボール。

「なに見てるの?」

 声にハッと振り返る。横向きになって片手を首の後ろに持っていったコウが、桃子を見上げていた。
「起きたんですか」
 目をそらして尋ねる。急いで掛け布団を剥がして、ベッドから降りようとする。
「うん、五分くらい前に」
 それじゃ桃子の百面相を全部見てたということか。
「寝たふりなんて、人が悪いですよ」
 騒めく鼓動を無視して、必死でいつも通りの口調を保つ。寝て起きたら隣にモデル上がりの俳優がいることなんて、全然大したことじゃない、とでもいうように。
 
 猟犬に気づいたウサギの如くベッドから飛び降りた桃子をどう思ったのか、くすっと笑ってコウは言った。
「昨日、ももちゃん酔っぱらって寝ちゃってさ。いくら呼んでも起きないから、ここまで運んだんだ。夜もけっこう遅いし、俺も眠かったし」
「ソファに放っておいてくれてよかったんですよ」
 心からそう言った。実際リビングのソファは、桃子のベッドとあまり変わらない大きさだ。

「まぁいいじゃん、一緒に寝るほうがあったかいし、落ち着かない?」
 さらりと言われた言葉に冷たい目を向ける。
「私だったら、一緒のベッドで落ち着く相手はかなり限定されますけどね」
 十数年ぶりに再会した幼なじみで、自分がこれから付き従うタレントとの同衾なんて、安らぎの対極にいる。

 言い捨てて部屋を出ようとすると、後ろから腕を捕まれた。ぎくりと体が強張る。

 コウが片側の口の端をわずかに上向けて桃子を見下ろした。どこか皮肉気な笑い。
「じゃあ、誰ならベッドインしてもいいの? 宇野さんとか?」
「なんで社長が」
 思ってもなかった発言にギョッとして、普段言わない肩書で呼んでしまう。
 というか、なんでそんな話になるんだ。

 コウの肩越しに、ベッドサイドのデジタル時計が視界に入る。時間を確認して、あっと声を上げた。
「コウさん! 時間まずい、もう支度しないと」
「そんなんじゃごまかされない」
 ごまかすってなんだ。
 再会して以来、慌てるのは桃子ばかりで、コウはいつも余裕を見せて笑っていた。それなのに今は声の響きに切羽詰まったものを感じて、再び視線を戻す。
 
 思ったよりも近いところに、コウの顔があった。
 反射的に身を引くと、背中がドアにあたる。
 
 直後、強く抱きしめられていた。密着する腕と胸。甘い香りが、記憶を呼び起こす。
 あ――――。

 桃子を抱きしめたまま、コウはつぶやいた。
「昨日のこと、覚えてる?」
 ドクン、ドクン。
 身体をめぐる血液の温度が、それまでより高くなった。
「……覚えてないです」
 身体が小刻みに震える。昨日と同じように、肩甲骨の後ろで交差される腕。片方の手が、優しい手つきで頭を撫でる。
 くすり、と低く笑う気配。
「うそつき」
 音もなく頬に熱が集まる。これはなんだろう。なんで昨夜も今も、私はこの男に抱きしめられてるんだろう。

 後頭部を撫でる指が、髪の毛をそっと梳く。恋人にするような仕種に、真っ赤に震えたまま固まっている。はやくこの嵐みたいな時間が過ぎることを願いながら。
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