ヒーローに恋をして
聞き間違いだろうか。予想外すぎる発言に、却って無表情になる。
「これからマネが必要だろ。営業は当分俺がやろうと思ってるから、おまえは現場についてって世話だけしてくれればいい。マネっていうか、まぁ付き人だな」
どうやら聞き間違いじゃないらしい。くわん、と頭の中が揺れる。
「……なんでですか」
どうして、私が。
トントン。宇野がガラスの灰皿に灰を落としながら桃子を見た。
「コウの映画の話、聞いてるだろう」
ぼんやりしたまま、半ば無意識に頷く。話題のモデル様は、既に銀幕デビューの話が決まっていた。
「城之内さんの映画だぞ。あの人のことならおまえもよく知ってるだろう」
知ってる、もなにも。
まだ状況を受け止められず、ぎこちなく答える。
「プラネットの映画」
「そう。あのひとだったよな」
宇野がなにかを思い出すように目を細めた。その宇野を茫と見ながら、久しぶりに口にした単語が心の乾いた部分にじわりと溶けた。
プラネット。
未来戦士プラネット。桃子が小学生の頃、男の子たちに人気だった特撮ヒーロー番組だ。遠い未来からやってきた主人公が悪とたたかう物語。
子どもと一部のコアなファンにしか知られていなかった番組は、あるときから世間に注目されるようになる。きっかけになったのは、番組の二期目から登場する少年・シュンだった。
プラネットが出会う過去の自分、シュン。少年シュン役を演じた子役が実は女の子だったと公表されると、これが話題となって「女の子が演じる男の子」は幅広い層に知られることになった。
長い手足をもった、大きな目の野生の小鹿のような少女。当時十三歳だった彼女は、少年の衣装を着ても違和感がないほどにかっこいい女の子だった。ワイドショーで特集を組まれ、あっという間に人気者になった。
だけどそんな時期は長く続かない。十三歳の女の子が、かっこよくい続けられる時間なんて限られているのだ。
そのことを、当時只中にいた本人だけが、わかっていなかった。
「監督はもう、私のことなんて覚えてないですよ」
工具セットの表面を指先で触りながら、桃子は呟く。
「そうか? 当時は今みたいに有名じゃなかったしな。プラネットが初監督だって聞いてたぞ」
そうなんだ、と他人事のように思う。
カット、はいオーケーはいチェック!
城之内の声が現場に響く。一斉に動き出す幾多のスタッフ。夢から醒めたような一瞬。トウコちゃんこっち向いて、ここ立って、こっち見て、ここで振り返って。出されるいくつもの指示。
その全部に夢中で応えていた。
ヒーローに、なりたかったから。
「マネになって現場ウロウロしてこいよ。うまくすれば仕事もらえるかもしれないだろう」
ぼんやりしていた意識が、予想外の発言にバサリと断たれた。
「自分の営業もするんですか? マネなのに?」
目を丸くする桃子に、宇野は頷く。
「そうだ。実際よく聞く話じゃないか、役者志望の奴が俳優の付き人やるなんて」
じゅ。たばこが灰皿に押し付けられる。
「それにもし、マネが自分にあってると思えば、そのまま続けたっていいしな」
さりげない口調で宇野は付け足したけど、長い付き合いの桃子にはわかった。本当はこっちが本心だと。
現場マネとして撮影に着いて行ったところで、簡単に役者なんてできない。スタッフはスタッフだ。
現実は言わないで、ちょっとがんばれば届きそうな夢を見させる。さすが元スカウトマンだ。
――あいかわらず、宇野さんは優しいな。
売れなくなってもう長いこと経つ。ふつうもっと早く契約解除の話をする。実際、前にいた事務所では三年目で言われた。
それを拾ってくれたのが宇野だ。独立するから、一緒に来ないかと。
すでにトウコは売れてなかったから、よく言われる別事務所への引き抜きのゴタゴタなんて無縁だった。それどころか、誰もががんばれよと肩を叩いて送り出してくれた。そのときつくづく思ったのだ。
ああ、自分はいらない存在なんだな、と。
そんな場所から自分を連れていってくれた宇野には感謝している。同時に、期待に答えられなかったことが心をじわりと締め付けた。
マネージャーか。いいかもしれない。
二十五歳。そろそろ本当に、売れない役者なんて肩書が笑えなくなる歳だ。
潮時だと、ずっと前からわかっていた。
「わかりました、やってみます」
そう言えば、途端に宇野はニッと笑った。
「それじゃ早速紹介するよ。実はもう呼んでるんだ」
その言葉に苦笑する。やっぱり、桃子が断るなんて思ってなかったに違いない。
宇野はスマホを取りだすと耳にあて、
「もしもし、俺。入ってきて」
短い会話を終わらせると、スマホをタップしながら宇野が言った。いきなりの展開に、心臓がドキドキと鳴る。
海の向こうの有名人、コウ。どんな顔だったっけ、と頭の中で検索をかけるも、まったく思い出せない。こんなことなら少しは勉強しておくんだった、と思っても遅すぎる。
ふうと息を吐いたら、胸の鼓動が少し早まってることに気がついた。
すこし、ドキドキしている。
これから新しい仕事が始まるのだ。それはきっと、事務所のライトを取り替えるよりは桃子の為になる。少なくとも宇野がそう信じてるから、やったほうがいい。
十二年か。
胸の内でつぶやく。
辞めたいとか、辞めようとか。そんなこと何度もおもった。
それなのに結局この世界の端っこにい続けた。夢を諦めないとか自分を信じてるとか、そんなキラキラした理由じゃない。
ただの――意地だ。
もう何年も強力な接着剤で固定されたように桃子にくっついているそれは、いつしか桃子の一部になって、もうどこまでが本心でどこからが惰性なのかもよくわからない。
宇野がなにか言いたげに桃子を見ているのを感じて、ふっと目をそらした。
コウ。
名前を胸のうちで反芻する。
あの子と同じ名前だ。
――ももちゃんは僕のヒーローなんだよ
笑いながらそう言った、やわらかな高い声。ずいぶん長い月日が経っているのに、その声音はかんたんに心の中で再生される。
こうちゃん。
ひさしぶりに胸の中で名前を呼ぶ。
こうちゃんが、今の私を見たら、いったいどう思うんだろう。
そのとき、カチャリと扉が開く音がした。
「これからマネが必要だろ。営業は当分俺がやろうと思ってるから、おまえは現場についてって世話だけしてくれればいい。マネっていうか、まぁ付き人だな」
どうやら聞き間違いじゃないらしい。くわん、と頭の中が揺れる。
「……なんでですか」
どうして、私が。
トントン。宇野がガラスの灰皿に灰を落としながら桃子を見た。
「コウの映画の話、聞いてるだろう」
ぼんやりしたまま、半ば無意識に頷く。話題のモデル様は、既に銀幕デビューの話が決まっていた。
「城之内さんの映画だぞ。あの人のことならおまえもよく知ってるだろう」
知ってる、もなにも。
まだ状況を受け止められず、ぎこちなく答える。
「プラネットの映画」
「そう。あのひとだったよな」
宇野がなにかを思い出すように目を細めた。その宇野を茫と見ながら、久しぶりに口にした単語が心の乾いた部分にじわりと溶けた。
プラネット。
未来戦士プラネット。桃子が小学生の頃、男の子たちに人気だった特撮ヒーロー番組だ。遠い未来からやってきた主人公が悪とたたかう物語。
子どもと一部のコアなファンにしか知られていなかった番組は、あるときから世間に注目されるようになる。きっかけになったのは、番組の二期目から登場する少年・シュンだった。
プラネットが出会う過去の自分、シュン。少年シュン役を演じた子役が実は女の子だったと公表されると、これが話題となって「女の子が演じる男の子」は幅広い層に知られることになった。
長い手足をもった、大きな目の野生の小鹿のような少女。当時十三歳だった彼女は、少年の衣装を着ても違和感がないほどにかっこいい女の子だった。ワイドショーで特集を組まれ、あっという間に人気者になった。
だけどそんな時期は長く続かない。十三歳の女の子が、かっこよくい続けられる時間なんて限られているのだ。
そのことを、当時只中にいた本人だけが、わかっていなかった。
「監督はもう、私のことなんて覚えてないですよ」
工具セットの表面を指先で触りながら、桃子は呟く。
「そうか? 当時は今みたいに有名じゃなかったしな。プラネットが初監督だって聞いてたぞ」
そうなんだ、と他人事のように思う。
カット、はいオーケーはいチェック!
城之内の声が現場に響く。一斉に動き出す幾多のスタッフ。夢から醒めたような一瞬。トウコちゃんこっち向いて、ここ立って、こっち見て、ここで振り返って。出されるいくつもの指示。
その全部に夢中で応えていた。
ヒーローに、なりたかったから。
「マネになって現場ウロウロしてこいよ。うまくすれば仕事もらえるかもしれないだろう」
ぼんやりしていた意識が、予想外の発言にバサリと断たれた。
「自分の営業もするんですか? マネなのに?」
目を丸くする桃子に、宇野は頷く。
「そうだ。実際よく聞く話じゃないか、役者志望の奴が俳優の付き人やるなんて」
じゅ。たばこが灰皿に押し付けられる。
「それにもし、マネが自分にあってると思えば、そのまま続けたっていいしな」
さりげない口調で宇野は付け足したけど、長い付き合いの桃子にはわかった。本当はこっちが本心だと。
現場マネとして撮影に着いて行ったところで、簡単に役者なんてできない。スタッフはスタッフだ。
現実は言わないで、ちょっとがんばれば届きそうな夢を見させる。さすが元スカウトマンだ。
――あいかわらず、宇野さんは優しいな。
売れなくなってもう長いこと経つ。ふつうもっと早く契約解除の話をする。実際、前にいた事務所では三年目で言われた。
それを拾ってくれたのが宇野だ。独立するから、一緒に来ないかと。
すでにトウコは売れてなかったから、よく言われる別事務所への引き抜きのゴタゴタなんて無縁だった。それどころか、誰もががんばれよと肩を叩いて送り出してくれた。そのときつくづく思ったのだ。
ああ、自分はいらない存在なんだな、と。
そんな場所から自分を連れていってくれた宇野には感謝している。同時に、期待に答えられなかったことが心をじわりと締め付けた。
マネージャーか。いいかもしれない。
二十五歳。そろそろ本当に、売れない役者なんて肩書が笑えなくなる歳だ。
潮時だと、ずっと前からわかっていた。
「わかりました、やってみます」
そう言えば、途端に宇野はニッと笑った。
「それじゃ早速紹介するよ。実はもう呼んでるんだ」
その言葉に苦笑する。やっぱり、桃子が断るなんて思ってなかったに違いない。
宇野はスマホを取りだすと耳にあて、
「もしもし、俺。入ってきて」
短い会話を終わらせると、スマホをタップしながら宇野が言った。いきなりの展開に、心臓がドキドキと鳴る。
海の向こうの有名人、コウ。どんな顔だったっけ、と頭の中で検索をかけるも、まったく思い出せない。こんなことなら少しは勉強しておくんだった、と思っても遅すぎる。
ふうと息を吐いたら、胸の鼓動が少し早まってることに気がついた。
すこし、ドキドキしている。
これから新しい仕事が始まるのだ。それはきっと、事務所のライトを取り替えるよりは桃子の為になる。少なくとも宇野がそう信じてるから、やったほうがいい。
十二年か。
胸の内でつぶやく。
辞めたいとか、辞めようとか。そんなこと何度もおもった。
それなのに結局この世界の端っこにい続けた。夢を諦めないとか自分を信じてるとか、そんなキラキラした理由じゃない。
ただの――意地だ。
もう何年も強力な接着剤で固定されたように桃子にくっついているそれは、いつしか桃子の一部になって、もうどこまでが本心でどこからが惰性なのかもよくわからない。
宇野がなにか言いたげに桃子を見ているのを感じて、ふっと目をそらした。
コウ。
名前を胸のうちで反芻する。
あの子と同じ名前だ。
――ももちゃんは僕のヒーローなんだよ
笑いながらそう言った、やわらかな高い声。ずいぶん長い月日が経っているのに、その声音はかんたんに心の中で再生される。
こうちゃん。
ひさしぶりに胸の中で名前を呼ぶ。
こうちゃんが、今の私を見たら、いったいどう思うんだろう。
そのとき、カチャリと扉が開く音がした。