ヒーローに恋をして
 コウのマネージャーを、映画のヒロインに。

 コウの提案に、城之内の隣に立つ林は眉をひそめて首を振った。
「いやいや、そりぁーないでしょ」
ムリムリ、と苦笑して手を振った。

「今とりあえず、ユリアちゃんの事務所で誰かいないかって聞いてるから。決まるまで他のシーンから録って」
「今から打診してスケジュール調整してもらうんですよね? 人気ある役者はどうせもう動けないですよ。それならトウコでもいいんじゃないですか?」
 林の言葉を遮って、コウが言葉を重ねる。桃子はその様子を呆然と見ていた。気がつけば、まだペットボトルを握りしめたままだった。

 ぐるりと、いくつもの視線が自分を包囲している。ついさっきまで、薄暗い出入り口のそばに立っていたのに。
 急に明るいところに引っ張りだされた夜行生物のように、おどおどと後ずさりする。何を言ったらいいかもわからない。頭の中がくらりと白く揺れている。

 林が困ったように眉を寄せて城之内を仰ぎ見た。城之内は腕を組んで、黙ってコウを見ていた。
 その視線が、コウから桃子に移る。かつて同じように、カメラのすぐ後ろでずっと桃子を見ていた目。

「トウコちゃんは、どうなの」

 城之内が尋ねる。それを合図に、コウと自分に分かれていた視線の先が、自分だけにザッと集中したのが分かった。後ろに並ぶADも、機材の手入れをしているアシスタントたちも、パイプ椅子に座って足を組む出演者たちも。
 誰もが桃子を見つめている。

「わ、たしは」

 思ったよりも小さな声。大きく言ったつもりもないけど、こんなに弱々しかったら城之内まで聞こえない。林が苛立ったように息を吐いた。掌の熱でぬるくなったペットボトルをギュッと握る。そんなささやかなしぐさも、大勢の人に見られていると思うとぎこちない。
 昔はそんなことなかったのに。ロープの向こうに並ぶ沢山の人たちを見ても、なんとも思わなかったのに。

「無理でしょ」

 桃子がなにか言うより先に、さくりとマリコが告げた。マリコは組んだ足の先をブラブラと揺らしながら、
「私は別にいいの、誰が演っても。ただね、役者は芝居が好きじゃなきゃいけないと思うわけ。彼女、そうでもないでしょ」

 決めつけるように言われた言葉はまちがってなかった。ついさっき、自分でも思ったことだから。

 だけど、とぼやりと思う。

 ――それでも、昨日の演技は楽しかった。

 向かい合う彼と息を合わせて、おいていかれないように必死で食らいついた。演技というより、なにか別の競技をしてるみたいだった。

 こうちゃん、ボールをよく見て。

 ダンッダンッダンッ。バスケットボールが床で跳ねる。リノリウムの床にバッシュが擦れて、甲高い音が鳴る。小さな手が懸命にボールを叩く。
 
 そう、うまい! ほらシュート!
 
 かけ声から一拍置かれたジャンプはタイミングが外れて、ボールはゴールから随分低い位置で床へと落ちる。
 それでも振り返った顔は満足そうに笑っていた。長い睫毛が、ふさりと揺れる。

 そう。なんだか、あの時に似ていたんだ。
 ふたりで一緒になにかをつくるということ。

「どうしてわからないんだよ」

 ふいに苛立ったようにコウが言った。その口調に、マリコが眉間に皺を寄せる。城之内も僅かに目を見張った。

 ――――あ。

 どくん、と鼓動が胸を打つ。
 その声音、その呼吸、その言葉。
 これは、ちがう、コウじゃない。

 わかるだろう、という顔で、振り返った男が笑う。傲慢で不遜な若きバスケットボールプレイヤーが、そこにいた。
 
 シーン七の冒頭。昨日何度も練習したところ。

 どくり、と血が波立つ。くらり、錯覚する。
 ウォームアップもなしに、いきなりコートに引っ張りだされたような感覚。

 パン!

 自分の手に投げて寄こされるバスケットボールが、見えた気がした。

「わかる必要もありません」
 桃子の言葉に、その場にいた全員が振り返る。視線がカメラのスイッチングのように、自分を映している。
 
 ああそうか。
 ロープの向こうの群衆が、気にならないはずだ。

「その汚いボールをもって、さっさと出て行ってください」

 いつだって結局自分は、この男しか見てないのだから。
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