ヒーローに恋をして
 ふぅ、と息を吐く。テレビのチャンネルを切るように、唐突に二人の劇は途切れた。
 いつの間にか静まりかえった周囲に向かって、おずおずと切り出す。
「すみません、ここまでしか暗記してなくて……。あの、以上です」
 昨夜練習したのはシーン七だけだ。他の場面は台本がなければわからない。

 林が渋い顔で腕を組む。
「いや」
 下を向いて、ごほんと咳ばらいした。苦い何かを吐きだそうとするかのように顔を顰めて、
「えーっとね、だから」
「台本があればほかのシーンもいけるか?」
 そう尋ねたのは城之内だった。なにかを値踏みするように無表情で桃子を見ている。
 桃子はぎこちなく頷いた。胸がざわざわと音を立てる。

「シーン八。続けてやってみてくれ」
「ジョウさん!」
 城之内の言葉に、林が慌てたように言う。城之内は林の言葉を無視して、撮影が始まったばかりなのにもうボロボロになっている台本をめくった。桃子も急いで鞄の中から台本を取りだす。

「あなた」
 桃子の台本を見たマリコが尋ねる。
「それ自分で書いたの?」
 昨夜、台本に書きなぐった様々なメモ。ところどころメモが印字に重なって読みづらいし、矢印や二重線が蛇行していて見苦しい。そんなものを見られたことが気恥ずかしくて、背を丸めて頷く。
「城之内さんに、言われたので。わからないことや感じたことは、全部メモしろと」

 マリコはメモのひとつひとつを追うように、黙って桃子の台本を見ていた。やがて桃子に視線を移すと尋ねる。
「あなた、名前は?」
 さきほどから連呼されている名前は、女優の意識の上を滑っていたらしい。それでもまっすぐにこちらを見てくる視線に圧倒されて、口を開いていた。
「桃子です」
 赤い口紅がきれいに塗られた唇が、トウコ、と繰り返す。

「あなたの方が、お嬢ちゃんよりはマシな芝居するわね」
「え?」
「いいんじゃない。代役、やってみなさいよ」
 さらりと言われた言葉の意味がわからず、まじまじとマリコを見返す。マリコは意に介さず城之内を振り返ると、
「城之内さんも、そう思うんでしょ」
 つられて城之内を見る。両腕を組んで立っていた城之内と、目が合った。

「ああ」
 城之内はひとつ頷いて言った。
「君がヒロインだ」

 桃子は呆然とその言葉を聞く。
 
 キミが明日のヒーローだ!

 ふいにプラネットの言葉が頭をよぎった。

「ももちゃん」
 柔らかな低い声。コウがニコリと笑って、手を差し出す。もう小さくはない、掌。
「一緒にやろう」

 ももちゃん、一緒にあそぼう。
 
 いつかのように伸ばされた手が、桃子を誘う。反射的に手を伸ばしかけて、はたと止まる。
 感情が、ぐにゃりと波立つ。
 
 コウがわからない。
 あの日、あんなにも桃子を拒否したのはコウだったのに。
 差し出された手から、ふっと目をそらす。同じタイミングでほかの出演者やスタッフに囲まれ、コウの反応は見ないで済んだ。

 自分がちゃんと笑えてるのかわからない。覚悟もないままに、新たなステージが始まったことだけはわかった。
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