ヒーローに恋をして
 キュキュッとバッシュが床に擦れる音が鳴る。選手たちがコートを走りまわる。長い指が跳ねるボールを確実にキャッチして、対戦相手をかわしていく。彼女の立つ出入り口の近くで、大勢の観客が声を嗄らして応援している。
 その声援に、彼女は警戒するような、とまどうような顔を浮かべる。その表情を近づくカメラが抜き取る。

「ナオト!」
 チームメイトが声とともにナオトにボールをパスする。受け取るナオトが不敵に笑う。キュキュッ。擦れた床の音。カメラマンや照明スタッフたちが縦移動用のレーンに乗って、その様子を真横から映す。

 ナオトが高く跳んだ。対戦相手の手が伸びる、それよりも高く。美しい放物線を描いで茶色いボールが放たれる。
 ざしゅ。
 白いネットゴールがボールを受けて揺れた。ひときわ大きな声援。チームメイトがナオトの頭を叩く。満面の笑みをこぼしてガッツポーズするナオトを、彼女は――ユキはじっと見つめていた。

「カット! はいオーケーはいチェック!」

 いつものように城之内の声が飛ぶ。途端にコウは腰をのけ反らせて寛いだ表情を見せた。チームメイト役の俳優たちがコウを取り囲んで談笑する。飛んできたメイクスタッフが俳優たちの汗を拭う。

 桃子はゆっくりと肩で息をした。鼓動が小刻みに震えて、落ち着かない。ごまかすように隅に置いていた台本をめくった。

 今日はナオトの試合シーンがメインだ。実業団の視察に来たユキがナオトの試合を見て、その活躍ぶりを目の当たりにする。いつも自分に挑戦的な態度だったナオトの、無邪気にさえ見える姿を見て、ユキの中でなにかが変わる。だけどそれはほんの些細な変化で、まだ本人も気がつかない。

 今のカットでは立っているだけだった桃子も、次のシーンではコウとのやり取りがある。試合後、誰もいないコートに立って――。
 台本を読むことに没頭していると、ふっと隣に誰かが座った。

「ポカリない?」
 
 意外なほど近くで聞かれた言葉に、驚いて振り返る。まだ汗を額に滲ませて、コウが笑った。
「あっちさ、置いてあるのウーロン茶と水だけなんだよね。やっぱ運動した後はスポーツドリンクでしょ」
 運動後の熱が、こちらまで漂う。目をそらして台本を閉じかけた。ぐる、と胸の底で感情がうねって、言葉を見失う。
「買ってきましょうか? あっちに自販機あったので」
 マネージャーらしい発言を探し当てられてホッとする。それでも顔は見れなかった。また鼓動が忙しなく震える。
 
 動揺し過ぎている。あんなの、ただの冗談に決まってるのに。
 思うそばから、さっきの言葉が脳裏を巡る。

 朝も、昼も、夜も、俺のことだけ考えてればいい

 あれはいったい、なに?

「あーないならいいよ。次のシーン? 読み合わせしよっか?」
 コウは閉じかけた台本を覗きこんで無邪気に笑いかけてくる。こっちがなにを考えてるかなんて、予想もしてない顔で。
「や、だいじょぶ、です」
 台本を見ようとするから、余計距離が近くなる。慌てて答えると、コウはなにが面白いのかクスリと笑った。なんだかひどく落ち着かなくて、無理やり話題を変えることにする。
「バスケ、相変わらずうまいですね」
 言ってから、しまったと口を閉じる。自分から爆弾を投下したみたいだ。
 
 ――僕、バスケうまくなったよ。背も伸びた。もう守ってもらわなくて、大丈夫なんだ

 言葉とともに、投げつけられたボール。あの痛みを桃子の心のどこかがまだ、覚えてる。

 桃子の葛藤に気づく様子もなく、コウは寛いだ表情のまま言った。
「アメリカ行ってからも、これでコミュニケーション取ってたからね。スポーツってすごいって思ったよ。言葉わかんなくても、友だちになれるんだから」
 さらりと言われた言葉に、思考を止めて振り返る。コウは相変わらず口元に笑みを浮かべて前を、ゴールネットの方を見ていた。

 桃子と離れたあとのこうちゃん。華やかなモデルのコウではなく、こうちゃんがどんな生活を送ってきたのか。その片鱗をはじめて聞いた気がした。

 そうだ。私はまだ聞いてない。
 どうして、こうちゃんは。

「どうしてモデルになろうと思ったんですか」
 ためらうよりも先に、問いは口をついて出た。口元に笑みを浮かべていたコウが、驚いたように目を見張った。

 聞いてはいけなかったんだろうか。後悔するより先にコウが口を開く。

「やっと聞いたね」
 その顔はなぜか少し歪んでいて、怒ってるみたいに見えた。
「ももちゃんは、子どもの頃の俺にしか興味ないのかと思った」
 言葉の意味がわからず、問うようにコウを見返す。そんなはずないのに、泣くのを我慢してるようにも見える。

「撮影再開します」
 城之内が手を叩いて知らせる。スタッフたちがカメラの後ろに散りながら短い会話を交わしあう。
 その中で、コウは言った。

「俺のことちゃんと見てよ。俺、もうガキじゃないんだよ」
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