ヒーローに恋をして
 キスさせて。

 コートにバウンドするバスケットボールのように、言葉が頭の中で跳ね返る。
 驚きに固まる桃子に、コウは無邪気とも思えるような笑顔をみせた。
「じゃ、はじめようか」

 手にはいつの間にかボールを持っている。その様子を見て、呪縛が解けたように声をあげた。
「む、無理です!」

 ボン、ボン。焦って首を振る桃子を尻目に、コウはゆったりとボールを突く。コウの大きな手が、真上に跳ね返るボールをキャッチする。力みのない動作が板についている。
 なんて感心してる場合じゃない。冗談のつもりなんだろうけど、それにしたってタチが悪い。

「コウさん、そろそろここの貸切時間終わるんです。早く戻って」
「やらないなら、不戦勝で俺の勝ちだけど」
 ボン。しなるボールがコウの掌に吸い寄せられる。にっと笑う顔は不遜で、ナオトを思い出させた。

「冗談、やめてください」
 掌を握りこむ。こんな言葉あそびに、本気になってると思われたくない。それなのに、落ち着かなくなってる自分が嫌だった。

「本気だよ」

 言葉とともに、コウがボールを持ち上げる。少し反らされる胸、上がる顎。目は桃子を見ている。
 長い腕が無駄のない動きでボールを放った。あ、と思う間もない。
胸の高さから放物線を描いて投げられたボールが、パシッと小気味いい音と共に両手におさまった。

 バスケットボールだ。

 両手からこぼれそうなその球体のボールは、灯りを弾いてつるりと光っていた。ずいぶん久しぶりに触る、ざらついたボールの感触。少し重たかった。
 
 とくん。
 胸が鳴る。少し軽やかに。久々の感覚に、体の内側から感情が色を乗せてあふれ出る。

 興奮、緊張、とまどい。
 そして少しの、期待。

「ももちゃん、パス!」

 顔をあげると、コウが笑っていた。今までとはちがう明るい笑顔。
 あ、と思った。

 そこに、こうちゃんがいた。
 桃子に向かって、ももちゃんと呼んでる。パスをねだって、手を伸ばしている。

 こうちゃん。

 上がっていた肩の力を抜くと緩く笑った。無意識に、笑っていた。
 邪魔なパンプスを脱ぐと、足の裏がひやりと冷たい。こんなんで、勝てるわけない。今度は苦笑いが浮かぶ。

 だけどやってみたかった。コートの向こうで桃子を呼ぶ幼なじみと、バスケットをしたいと思った。
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