ヒーローに恋をして
俺のもの
「カーット」
いつものように城之内の声が響く。そのすぐ後に、はいオッケーはいチェック。とは続かない。桃子は視線を落として無意識に唇をかみしめた。
スタジオの中に再現させた、オフィスの一角。普段はかない八センチのピンヒールが、親指を窮屈にしている。
「トウコ」
城之内が丸めた台本で自分の肩を叩きながら桃子を見る。いつのまにか、桃子のことを呼び捨てで呼ぶようになっていた。最初は子役の頃と同じトウコちゃんだった。ちゃん付けがなくなって、役者として改めて接してもらったみたいでこそばゆくて、でも嬉しかった。
けれど今は、呼ばれた声に含まれている響きに目線が下がる。
「すみません」
さっきよりもよりも小さな声で謝る。
同じところでまちがえている。今度で四度目だ。大したことのないシーン。振り返って、短い会話をするだけの。それなのに、言葉に詰まってしまう。不調の原因はわかっていた。
あのキスから一週間。収録でスムーズにOKが出たことは一度もなかった。
「ああもう」
苛立ったような声に顎を少し上げる。両腕を組んだ林が、首を傾けて言った。
「だからさぁ、反対だったんだよマネ使うなんて」
「今さら言うな」
林の不満を切って捨てるように言う城之内に、
「だって俺、どんだけ大変だったかジョウさん知ってるでしょ? 今もユリアちゃんの事務所がさぁ」
たまった鬱憤を吐きだすようにオーバーなリアクションで林が言う。
二人のやり取りを聞くともなく聞きながら、つらいな。ぼやりと思って、また目線が落ちる。
ふわり、肩に大きな手が置かれたのはそのときだ。相手の顔を見なくてもわかる。
「大丈夫」
安心させるような声。深くて優しい。いつの間にこんなに、大人らしい声を出せるようになってたんだろう。
ふっと固くなっていた心の奥がほどけて、そのことがまた桃子を苦しくさせる。
安心したくない。慰められてほっとするなんて、いやだ。
大体なにが大丈夫なんだ。だれのせいだと思って。おもわず恨みがましい顔で相手を見上げる。
コウが口角をあげて、ふっと笑った。馬鹿にするでもなく、大げさでもなく、なにか心にじわりとくる笑い方だった。また胸が鳴る。さっきNGを出したときと同じように。
だから、その笑いが逆効果なんだって。
慰められるたびに馬鹿みたいに慌ててしまう。台詞も頭から滑り落ちる。この一週間ずっとそう。
――俺はずっとももちゃんに会いたかった
城之内が、桃子になにか言う。きちんと聞かないといけない。私はいま、役者なんだから。
――だから日本に帰ってきたんだ
コウの言葉が頭のなかを回って、水の中で聞く声のように鼓膜に詮をする。こんなんじゃだめだ、そう思っておなかに力をいれて、でもすぐにぼろりと挫折する。
視界の端にコウがいる。朝迎えに行って、撮影して、移動して、マネージャーになったり役者になったり、どっちにしてもずっと一緒で。
――朝も、昼も、夜も、俺のことだけ考えてればいい
なんてことだろう。まさに今、彼が言ったような状況になってしまっている。
バン!
大きな音に、びくりと肩が揺れた。
「いい加減にしなさいよ」
マリコが台本をデスクに叩きつけてこちらを睨みつけていた。
「間違えるのはまだいい。けどね、やる気がないのは最低。わかってるの? あんたの代わりなんていくらでもいるのよ」
ぼんやりしていた桃子をたたき起こすような、容赦のない言葉だった。ぶわりと冷気が体の内側を這う。
ゆっくりと周囲を見渡す。マリコの後ろに立つ、ガンマイクを持った音声スタッフ。延長コードを両手に握るアシスタントとカメラマン。ライトを調整している照明スタッフ。メイクやスタイリスト。その後ろで、椅子に座って腕を組んでいる制作委員会や代理店の社員たち。そして更にその後ろ。
出入り口に一番近い壁際。そこで座りもせず、何時間も立ってこっちを見ている、共演者のマネージャーたち。
視線だけで作られるスポットライト。その中央に、自分がいるということ。わかっていたはずなのに、今さらその事実と対面したような気がした。
「……すみませんでした」
頭を下げる。羞恥に頬が赤く染まった。
マリコが怒るのも当然だ。
一体いままで、なにをしてたんだろう?
桃子に、城之内が静かに尋ねる。
「やれるか?」
マリコのように叱責されたわけじゃない。それなのに、体が微かに震えた。
「はい」
頷いた。一番奥に立つマネージャーたちにも見えるように、はっきりと。
あそこに桃子がいたのは、つい数週間前のことだ。
そのことを、忘れてはいけないんだ。
視界の端で、コウがなにか言いたげな顔でこっちを見ているのがわかる。この一週間ずっとそうだったように。だからこそ、桃子は目を合わせない。気づかない振りをする。
あのキスの意味も、
俺はずっとももちゃんに会いたかった。だから日本に帰ってきたんだ
あの言葉の意味も、考えない。
だってコウは役者で、桃子はマネージャーでもあって。
なにより、コウはこうちゃんなのだ。
桃子のお姫さまのこうちゃん。
最後は傷ついたけど、それでも桃子の中でこうちゃんは特別な思い出だった。
こうちゃんとキスした、それだけでも桃子の考えを超えたことなのに。
そこに意味を持たせるなんて、そんなことできない。それはなんだか、昔の思い出を裏切ることのように思えて、それ以上考えるのをやめてしまう。
それでいい。きっとだんだん、忘れていくはずだ。
この一週間毎日そうだったように、そう結論付けて息を吐いた。
そのとき、
「みなさん、お疲れさまです」
甘く甲高い声が、スタジオに響いた。
いつものように城之内の声が響く。そのすぐ後に、はいオッケーはいチェック。とは続かない。桃子は視線を落として無意識に唇をかみしめた。
スタジオの中に再現させた、オフィスの一角。普段はかない八センチのピンヒールが、親指を窮屈にしている。
「トウコ」
城之内が丸めた台本で自分の肩を叩きながら桃子を見る。いつのまにか、桃子のことを呼び捨てで呼ぶようになっていた。最初は子役の頃と同じトウコちゃんだった。ちゃん付けがなくなって、役者として改めて接してもらったみたいでこそばゆくて、でも嬉しかった。
けれど今は、呼ばれた声に含まれている響きに目線が下がる。
「すみません」
さっきよりもよりも小さな声で謝る。
同じところでまちがえている。今度で四度目だ。大したことのないシーン。振り返って、短い会話をするだけの。それなのに、言葉に詰まってしまう。不調の原因はわかっていた。
あのキスから一週間。収録でスムーズにOKが出たことは一度もなかった。
「ああもう」
苛立ったような声に顎を少し上げる。両腕を組んだ林が、首を傾けて言った。
「だからさぁ、反対だったんだよマネ使うなんて」
「今さら言うな」
林の不満を切って捨てるように言う城之内に、
「だって俺、どんだけ大変だったかジョウさん知ってるでしょ? 今もユリアちゃんの事務所がさぁ」
たまった鬱憤を吐きだすようにオーバーなリアクションで林が言う。
二人のやり取りを聞くともなく聞きながら、つらいな。ぼやりと思って、また目線が落ちる。
ふわり、肩に大きな手が置かれたのはそのときだ。相手の顔を見なくてもわかる。
「大丈夫」
安心させるような声。深くて優しい。いつの間にこんなに、大人らしい声を出せるようになってたんだろう。
ふっと固くなっていた心の奥がほどけて、そのことがまた桃子を苦しくさせる。
安心したくない。慰められてほっとするなんて、いやだ。
大体なにが大丈夫なんだ。だれのせいだと思って。おもわず恨みがましい顔で相手を見上げる。
コウが口角をあげて、ふっと笑った。馬鹿にするでもなく、大げさでもなく、なにか心にじわりとくる笑い方だった。また胸が鳴る。さっきNGを出したときと同じように。
だから、その笑いが逆効果なんだって。
慰められるたびに馬鹿みたいに慌ててしまう。台詞も頭から滑り落ちる。この一週間ずっとそう。
――俺はずっとももちゃんに会いたかった
城之内が、桃子になにか言う。きちんと聞かないといけない。私はいま、役者なんだから。
――だから日本に帰ってきたんだ
コウの言葉が頭のなかを回って、水の中で聞く声のように鼓膜に詮をする。こんなんじゃだめだ、そう思っておなかに力をいれて、でもすぐにぼろりと挫折する。
視界の端にコウがいる。朝迎えに行って、撮影して、移動して、マネージャーになったり役者になったり、どっちにしてもずっと一緒で。
――朝も、昼も、夜も、俺のことだけ考えてればいい
なんてことだろう。まさに今、彼が言ったような状況になってしまっている。
バン!
大きな音に、びくりと肩が揺れた。
「いい加減にしなさいよ」
マリコが台本をデスクに叩きつけてこちらを睨みつけていた。
「間違えるのはまだいい。けどね、やる気がないのは最低。わかってるの? あんたの代わりなんていくらでもいるのよ」
ぼんやりしていた桃子をたたき起こすような、容赦のない言葉だった。ぶわりと冷気が体の内側を這う。
ゆっくりと周囲を見渡す。マリコの後ろに立つ、ガンマイクを持った音声スタッフ。延長コードを両手に握るアシスタントとカメラマン。ライトを調整している照明スタッフ。メイクやスタイリスト。その後ろで、椅子に座って腕を組んでいる制作委員会や代理店の社員たち。そして更にその後ろ。
出入り口に一番近い壁際。そこで座りもせず、何時間も立ってこっちを見ている、共演者のマネージャーたち。
視線だけで作られるスポットライト。その中央に、自分がいるということ。わかっていたはずなのに、今さらその事実と対面したような気がした。
「……すみませんでした」
頭を下げる。羞恥に頬が赤く染まった。
マリコが怒るのも当然だ。
一体いままで、なにをしてたんだろう?
桃子に、城之内が静かに尋ねる。
「やれるか?」
マリコのように叱責されたわけじゃない。それなのに、体が微かに震えた。
「はい」
頷いた。一番奥に立つマネージャーたちにも見えるように、はっきりと。
あそこに桃子がいたのは、つい数週間前のことだ。
そのことを、忘れてはいけないんだ。
視界の端で、コウがなにか言いたげな顔でこっちを見ているのがわかる。この一週間ずっとそうだったように。だからこそ、桃子は目を合わせない。気づかない振りをする。
あのキスの意味も、
俺はずっとももちゃんに会いたかった。だから日本に帰ってきたんだ
あの言葉の意味も、考えない。
だってコウは役者で、桃子はマネージャーでもあって。
なにより、コウはこうちゃんなのだ。
桃子のお姫さまのこうちゃん。
最後は傷ついたけど、それでも桃子の中でこうちゃんは特別な思い出だった。
こうちゃんとキスした、それだけでも桃子の考えを超えたことなのに。
そこに意味を持たせるなんて、そんなことできない。それはなんだか、昔の思い出を裏切ることのように思えて、それ以上考えるのをやめてしまう。
それでいい。きっとだんだん、忘れていくはずだ。
この一週間毎日そうだったように、そう結論付けて息を吐いた。
そのとき、
「みなさん、お疲れさまです」
甘く甲高い声が、スタジオに響いた。