ヒーローに恋をして
「お疲れさまでーす」

 事務所は相変わらずひと気がなかった。窓際に立ってスマホで話している宇野のほかに、アルバイトの女の子がヘッドホンをつけて所属俳優の公式ホームページを更新していた。

 宇野の大きな声とぶつかり合うように聞こえるアイドルソングのBGMが、疲れた神経をチリチリと刺す。

 桃子用にあてがわれたデスクには、閉じたノートパソコンにべたべたと付箋が貼ってあった。折り返しください、メール確認してください、の文字。パソコンの前には、勝手に積まれたポスターの色校や、コウの公式サイトのデザイン案や、公式グッズの価格表。
 ひとつひとつ目で追って、もうやだ、と唐突に思う。
 こんな二足のわらじ、ずっと続けてたら死んでしまう。

 椅子にどさりと座りこむと、天を仰ぐように首を反らした。
「あーもう」
「どうしたトウコ」
 通話を終えた宇野が声をかけてくる。地声が大きいから、デスクが離れていても会話がしやすい。
「社長、もう無理です。限界」
「コウはどうした」
 桃子の愚痴をサラリと流して宇野は尋ねる。途端に心の中がもやりと燻る。
「デートですよ、ユリアちゃんと」
「それで拗ねてんのか」
 どこか愉しげな宇野の声に顔を上げる。
「拗ねてません」
 即座に言い返す。宇野が咥えた煙草に火をつけると、細く白い煙が立ち上った。

「っていうか、いいんですか? スキャンダルですよ」
 なんでだろう、すごくイライラする。苛立ちのままに噛みつくように尋ねれば、
「ユリアなら知名度的に申し分ないな」
 顔色一つ変えず宇野はそう答えた。
「ユリアのファン層って男が多いからコウのことよく知らないだろ? その辺りのひとにもコウのこと知ってもらうチャンスだな」
 淡々と言われた言葉に目を見張る。
 そして同時に、ああ、と思った。

 目の前にいるのは「社長」なんだ。兄でも、友だちでもなく。

 十年以上一緒に仕事をしている、この業界で誰よりも尊敬してるひと。でもきっと、桃子の知らない部分がたくさんある。

 わかっていたことだ。けれど胸の奥が少し、冷たい風が吹いたようにヒヤリとした。

 桃子の表情をどう捉えたのか、宇野はふっと口元を和らげた。ふわりと煙が揺れる。

「まぁ、コウなら大丈夫だよ。誰と一緒だって、変なことにならない」
 この間迎え入れたばかりの新人を、まるで何年も前から知り合いかのように言う。

 じゅ。点けたばかりの煙草をもみ消すと、
「ほら、そんなシケた顔するな。コウいないなら、久しぶりに飯でも行くか」
 そう言うやいなや立ち上がって、後ろのハンガーラックにかけている上着を羽織った。
「トウコ」
 桃子を呼ぶ眼差しは、いつもの宇野だった。そのことにホッとして、頷いた。
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