ヒーローに恋をして
四人掛けのボックス席に桃子たちを通すと、青葉はウィンクして厨房へと戻った。その背中を見送りながら尋ねる。
「青葉さん、芸能界辞めちゃったんですか?」
カチリ。
宇野がライターを点ける音が小さく聞こえた。
「あー辞めたっていうか、仕事がな。あのひとも苦労したんだよ」
濁すように言う宇野の言葉の意味は、なんとなくわかった。
つまり、桃子といっしょだ。
今でこそ特撮ヒーローは若手俳優の登竜門のようなイメージがあるけど、桃子たちの時代は違った。
特撮番組はジャリ番と呼ばれ、古株のスタッフほど仕事に加わるのを嫌がる。ジャリは子役タレントを指す俗語だから、要はガキの番組、みたいなちょっと蔑んだニュアンスがある。
特撮番組は大人向けの番組よりもレベルが低い。そんな風に思われてるなんて、想像したこともなかった。だから番組が終わった後受けたオーディションで、自己紹介をするよりも早く「隊員芝居はやめてね」とからかうように言われたときはショックだった。
そういう経験を、桃子と同じように青葉もしてきたはずだ。夜景の輝くダイニングバーのオーナーとしてフロアに立つことを決めるまで、青葉はなにを思って芸能界を生きていったんだろう。
かつての先輩であり、仲間でもある青葉の消えた厨房を桃子はじっと見つめていた。
桃子の考えを読んだのか、メニューを見つめながら宇野が言う。
「芸能界にいる間にコネは色々作ったみたいだからな。業界の人もけっこう使ってるみたいだぞ、ここ」
その言葉になんとなくホッとして、柔らかなソファに座りなおす。
「トウコもさ、無理だ嫌だって思ってる間に、ちょっとでも次に繋がるように色んな人と接点作っといたほうがいい」
サラリとそう言って、たばこの煙を吐く。真上から一点だけ灯るライトの光が、立ちのぼる煙を仄かに照らした。
それはさっき、無理です限界、と言ったことの答えだろうか。確かめることはできずに、ドリンクメニューに視線を落とす。遠くのテーブルで若い女の子が笑う声が聞こえた。
「こういうところも、映画が公開されたら気軽に来れなくなる」
わずかな沈黙の後、宇野がぽつりと言った。顔を上げると、唇の端をわずかに上げて笑ってる。
「動き始めてるんだよ、もう。だからごちゃごちゃ考えるの、やめとけ」
宇野が喉を反らして煙を上へと逃がした。ごくたまに、非喫煙者に配慮してくれる。
ふいに上半身の力が抜けて、ソファの背もたれに寄りかかった。
「マネージャー、いつまでやればいいんですか」
閉じたドリンクリストの角が膝に食いこむ。こんなにたくさん種類があったって、どうせ頼むのはビールだ。
「ん~、あいつの気がすむまで?」
妙におどけたように答える宇野に顔を顰める。なんだそれ。
「はいどうぞ」
頭上から声がした。青葉がワイングラスを二つ持っている。片手には未開封らしきワインボトル。
「俺からのおごり」
そう言って青葉は慣れたしぐさでワインを注ぐ。透明なグラスにとぽとぽと流れるワイン。薄暗い店内で、ワインの色はガラス張りの向こうの夜と同じ色をしていた。
「トウコちゃんに酒注いでるなんて、今すっごい時の流れを感じた」
青葉がクッと笑う。座った位置から見上げる青葉の背はグンと高く、十二年前共演していたお兄さんをこんな風に見上げていたなと頬を緩めた。
「青葉さんは、昔も今もかっこいいですよ」
笑ったままそう言えば、青葉が少し驚いたように目を見張った。そのすぐ後目を伏せて、丁寧にワインボトルの口をナプキンで拭う。その様子をなんとなく目で追っていた桃子に、青葉はもう一度視線を戻した。
「トウコちゃんて、今彼氏とかいるの?」
「……えぇ~?」
反応が少し遅れたのは、予想外すぎた質問の所為だ。真顔で尋ねてくる青葉にからかいの色は見えないのに、問いは明らかに冗談として聞かれる類のそれだ。言ってることと顔つきの落差に、妙な可笑しみを感じる。半笑いのまま、
「いやいないですよ。いたらこんなとこ社長と来ませんって」
「失礼なやつ」
宇野はたばこをふかしたまま小さく笑った。桃子も笑って、このちょっとしたやり取りは収束に向かいそうだった。
けれど、
「それなら、俺が口説いてもいいのかな」
その一言で、ピタリと笑う声が止まる。それはオーナーのリップサービスか、それともちがうものなのかを確かめる間もなく。
「いいわけないだろ」
低い声が間に入ったことで、和やかな空気は無音のうちに裂かれた。
振り返る。視界の隅に、注がれたばかりの赤ワインがふたつ。
まるで、あの夜のように。
きれいだけど冷たい目。この顔は、モデル時代の写真で見たあの顔に似てる。上半身裸で、落書きされた壁によりかかっていたポスター。なんだかなにもかも気に食わない、そんな顔。そんな表情なのに、色気も美も少しも損なわれてなかった。
なんて関係ないことをつらつらと思い出して、驚きを逃がそうとしている。
長い足が二歩、ゆっくりと前に出る。フロアに敷かれた闇色のマットが足音を吸収している。
やっぱり元モデルだ。ただ歩くだけで、どうしてこんなにかっこよく見えるんだろう。
コウは堂々とした足取りで、桃子たちのテーブルまでやって来た。出入り口近くには、大きなサングラスと目深にかぶった帽子で顔を隠した女の子が立っている。ユリアだ。
コウは青葉に向かい合うと、冷たい目のまま言った。
「いいわけないだろ。このひとは俺のものなんだよ、ずっと昔から」
「青葉さん、芸能界辞めちゃったんですか?」
カチリ。
宇野がライターを点ける音が小さく聞こえた。
「あー辞めたっていうか、仕事がな。あのひとも苦労したんだよ」
濁すように言う宇野の言葉の意味は、なんとなくわかった。
つまり、桃子といっしょだ。
今でこそ特撮ヒーローは若手俳優の登竜門のようなイメージがあるけど、桃子たちの時代は違った。
特撮番組はジャリ番と呼ばれ、古株のスタッフほど仕事に加わるのを嫌がる。ジャリは子役タレントを指す俗語だから、要はガキの番組、みたいなちょっと蔑んだニュアンスがある。
特撮番組は大人向けの番組よりもレベルが低い。そんな風に思われてるなんて、想像したこともなかった。だから番組が終わった後受けたオーディションで、自己紹介をするよりも早く「隊員芝居はやめてね」とからかうように言われたときはショックだった。
そういう経験を、桃子と同じように青葉もしてきたはずだ。夜景の輝くダイニングバーのオーナーとしてフロアに立つことを決めるまで、青葉はなにを思って芸能界を生きていったんだろう。
かつての先輩であり、仲間でもある青葉の消えた厨房を桃子はじっと見つめていた。
桃子の考えを読んだのか、メニューを見つめながら宇野が言う。
「芸能界にいる間にコネは色々作ったみたいだからな。業界の人もけっこう使ってるみたいだぞ、ここ」
その言葉になんとなくホッとして、柔らかなソファに座りなおす。
「トウコもさ、無理だ嫌だって思ってる間に、ちょっとでも次に繋がるように色んな人と接点作っといたほうがいい」
サラリとそう言って、たばこの煙を吐く。真上から一点だけ灯るライトの光が、立ちのぼる煙を仄かに照らした。
それはさっき、無理です限界、と言ったことの答えだろうか。確かめることはできずに、ドリンクメニューに視線を落とす。遠くのテーブルで若い女の子が笑う声が聞こえた。
「こういうところも、映画が公開されたら気軽に来れなくなる」
わずかな沈黙の後、宇野がぽつりと言った。顔を上げると、唇の端をわずかに上げて笑ってる。
「動き始めてるんだよ、もう。だからごちゃごちゃ考えるの、やめとけ」
宇野が喉を反らして煙を上へと逃がした。ごくたまに、非喫煙者に配慮してくれる。
ふいに上半身の力が抜けて、ソファの背もたれに寄りかかった。
「マネージャー、いつまでやればいいんですか」
閉じたドリンクリストの角が膝に食いこむ。こんなにたくさん種類があったって、どうせ頼むのはビールだ。
「ん~、あいつの気がすむまで?」
妙におどけたように答える宇野に顔を顰める。なんだそれ。
「はいどうぞ」
頭上から声がした。青葉がワイングラスを二つ持っている。片手には未開封らしきワインボトル。
「俺からのおごり」
そう言って青葉は慣れたしぐさでワインを注ぐ。透明なグラスにとぽとぽと流れるワイン。薄暗い店内で、ワインの色はガラス張りの向こうの夜と同じ色をしていた。
「トウコちゃんに酒注いでるなんて、今すっごい時の流れを感じた」
青葉がクッと笑う。座った位置から見上げる青葉の背はグンと高く、十二年前共演していたお兄さんをこんな風に見上げていたなと頬を緩めた。
「青葉さんは、昔も今もかっこいいですよ」
笑ったままそう言えば、青葉が少し驚いたように目を見張った。そのすぐ後目を伏せて、丁寧にワインボトルの口をナプキンで拭う。その様子をなんとなく目で追っていた桃子に、青葉はもう一度視線を戻した。
「トウコちゃんて、今彼氏とかいるの?」
「……えぇ~?」
反応が少し遅れたのは、予想外すぎた質問の所為だ。真顔で尋ねてくる青葉にからかいの色は見えないのに、問いは明らかに冗談として聞かれる類のそれだ。言ってることと顔つきの落差に、妙な可笑しみを感じる。半笑いのまま、
「いやいないですよ。いたらこんなとこ社長と来ませんって」
「失礼なやつ」
宇野はたばこをふかしたまま小さく笑った。桃子も笑って、このちょっとしたやり取りは収束に向かいそうだった。
けれど、
「それなら、俺が口説いてもいいのかな」
その一言で、ピタリと笑う声が止まる。それはオーナーのリップサービスか、それともちがうものなのかを確かめる間もなく。
「いいわけないだろ」
低い声が間に入ったことで、和やかな空気は無音のうちに裂かれた。
振り返る。視界の隅に、注がれたばかりの赤ワインがふたつ。
まるで、あの夜のように。
きれいだけど冷たい目。この顔は、モデル時代の写真で見たあの顔に似てる。上半身裸で、落書きされた壁によりかかっていたポスター。なんだかなにもかも気に食わない、そんな顔。そんな表情なのに、色気も美も少しも損なわれてなかった。
なんて関係ないことをつらつらと思い出して、驚きを逃がそうとしている。
長い足が二歩、ゆっくりと前に出る。フロアに敷かれた闇色のマットが足音を吸収している。
やっぱり元モデルだ。ただ歩くだけで、どうしてこんなにかっこよく見えるんだろう。
コウは堂々とした足取りで、桃子たちのテーブルまでやって来た。出入り口近くには、大きなサングラスと目深にかぶった帽子で顔を隠した女の子が立っている。ユリアだ。
コウは青葉に向かい合うと、冷たい目のまま言った。
「いいわけないだろ。このひとは俺のものなんだよ、ずっと昔から」