ヒーローに恋をして
「私車じゃないですよ」
 勢いに押されたままビルを出て、思い出してそう告げる。ここにはタクシーで来ていた。
「じゃ送るから乗って」
 コウは低い声でそう言うと、さっさとタクシーを停めた。

 送る? 
 コウが桃子を?

 今日何度目かの疑問符が頭の中に浮かび上がる。バカリと開いたタクシーのドアに体を滑りこませたコウが、早く、と桃子を急き立てる。タクシーの運転手が桃子を振り返る。その視線に負けて、開いたままのドアからシートに座った。

 助手席に座ればよかった。

 ドアが閉じた途端そう思ったけれど、あとの祭り。こちらの感情を無視して運転手がどちらまでですか、と淡々と聞いてくる。反射的に自宅の住所を伝えると、運転手はカーナビを操作しはじめた。

「やっぱりコウさん先に降りたほうが」
 よくないですか、という声が喉の奥で止まった。振り返った先、コウが覗きこむようにこちらに身を乗り出していたから。

 ギョッとして退いて、背中と頭をドアにぶつけた。同時に車が走り出す。どんどんどん。心臓があばれる。
「なんですか」
「たばこのにおい」
 コウは不快そうにわずかに眉を寄せた。たばこのにおい。言われたことを頭の中で反復して、あぁと頷く。
「宇野さんの。あのひとヘビースモーカーだから」
 不健康ですよねぇと無理やり笑いながら言った声にかぶせるように、
「移り香とか、むかつく」
 妙に幼い口調でコウは吐きだした。
 
 もう、なんなんだ。

 ぐったりと疲れてしまう。そういえば結局ご飯を食べ損ねた。自覚すると急に空腹が押し寄せてきて、からっぽの胃を宥めるように撫でさすった。

 これ以上会話する気にもならず、窓の外をぼんやりと眺めた。コウもなにも言わない。ときおり運転手の無線に入る細切れな情報のやり取りだけが、唯一のBGMだった。
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