ヒーローに恋をして
こころ想う
話し終えたコウが、せまい布団の上、布団の上に座りこんで桃子を見ている。その目を見ることができない。目の下の、唇の端あたりに視線を置く。
「じゃ……モデルになったのは」
驚きの所為か、ずいぶん掠れた声が出た。コウは小さく頷くと、
「有名になるって約束したから」
布団の上に両手をついて答えた。
約束だったからって。
そんな簡単に。
「……だって」
口元を両手で覆う。手が小刻みに震えた。
あれからすぐ売れなくなっちゃったでしょ? だからももちゃんの代わりに、俺がテレビに出ようと思ったんだ
あんなふうに言ったくせに。
なにを言っていいかわからない。
なにを思っていいのかも、わからない。
いつか見た、コウのモデルの写真が頭の中を巡る。色気があって、堂々として、美しい写真の数々。
たくさんの記者に囲まれた記者会見。期待と羨望を一身に浴びて――
どうしても会いたい人がいたから、日本に帰ってきました
あの、ことば。
あ、と思ったときには目の端が熱く潤んでいた。反射的にまばたきをすると、ぽろりと涙が一粒、弾かれた。口元を手で覆ったまま、涙を隠そうと俯く。
「ももちゃん」
深くて優しい声。心の奥をつかもうとするような。
コウの手が、そっと桃子の手首に添えられる。その熱さにびくりと震える。
「顔、あげて」
やだ。
首を横に振ると、口元を覆っていた手を剥がされる。熱く潤んでいる自分の目を、覗きこまれる。コウが小さく、息を飲む。
目の前で、コウの姿が万華鏡のように色と姿を変えていく。小さかった幼なじみ。堂々とカメラの前に立つ役者。色気あふれるモデル。笑う、怒る。
桃子に触れる。
頬があつい。きっと真っ赤になっている。自分の気もちがどこにあるのか、どうなってるのかわからない。
「ももちゃんは」
そっとコウが桃子の頬に触れる。掌がそっと、頬をつつむ。
「俺の初恋だった」
はつこい。
かわいらしい響きと不似合いなほど、真剣な表情でコウは言う。
「十六歳のももちゃんを見て、びっくりした」
すっと、下りてきた親指の腹が唇に触れる。おもわず肩が揺れる。
それなのにコウは、セクシャルな仕種と反対に爽やかに笑った。
「前の事務所の人たち、馬鹿だよなぁ。ももちゃんはあんなにかわいかったのに」
パキン、と。
それまで心の中にあった固い塊が、割れる音を聞いた。
真夜中過ぎの古びたアパート。雑誌やダイレクトメールが散乱するこの小さな部屋で、桃子はコウを見つめる。
ぶわり、と視界が滲んで、ああまた泣いてしまった、と思った。
だけどもう、うつむくことはなかった。
涙を拭い取ってくれるコウの手を、嬉しいと感じたから。
「ばかだよ」
それなのに、非難めいた言い方をしてしまう。
「有名になんて、なれるかもわかんないのに」
宇野が取引だなんて、そんなこと言わなかったら、あのままアメリカでバスケ少年をしていたはずだ。
そのままプロになることを夢見たりして、叶っても叶わなくても、自分に合う道を探そうとする。そのへんにいる、十代の少年たちと同じように。
桃子の知らないところで、途方もない挑戦を強いてしまった。
そのことを、どう受け止めたらいいんだろう。
「でも、なれたし」
コウは笑った。頬に流れ落ちる桃子の涙を拭いながら、
「ヒーローに、不可能はないんだよ」
そう言った笑顔はどこか可愛くもあった。
ああもう。
くしゃりと笑ったら、その拍子にまた涙が滲んだ。
かなわない、と思った。
この幼なじみには、かなわない。
「ねぇ、それより」
コウが自然なしぐさで桃子の腕を引く。桃子はあっさりとコウの胸に鼻先から突っ込んだ。
「あ、」
コウの両手が背中と腰を強く抱く。鼻の先で、コウがいつもつけている香水の匂いが香った。
「俺のこと、どう思ってる?」
視線だけを上向ける。今までの柔らかな笑顔じゃない、どこか切羽詰まった顔が桃子を見下ろしていた。片耳があたるコウの胸から、意外なほど速い鼓動の音を聞く。
コウも緊張してるんだ。
鼓動の速さに、胸がぐっと絞られた。自分のせいで乱れた感情の、その片鱗を見つけてそっと息を飲む。
ふしぎだ。
ついさっき、タクシーの中ではこんなふうになることを、想像さえしてなかったのに。
そして同時に、ほんとうに? と自分に問う。
予感は、いくつも散らばっていた。
ずっと見ない振りをして、子ども時代の思い出で身を守っていた。
ばかは、私だ。
だけど。
「……明日から、もっと演技がんばる」
噛み合わない答えに、コウがとまどったような顔をする。その表情はコウを少しだけ昔のこうちゃんに戻して、ふっと頬がゆるんだ。
こうちゃんと、目の前にいるコウと。
その間に立つ、桃子の知らないコウ。
すべてが、このひとを形作っている。
その事実がすとんと、胸に落ちる。
「今まで、流されて演技してた気がする」
コウを見つめて言う。
「前もそうだった。ヒーローになりたいって、それだけだった。だからヒーローが終わったら、仕事なくなっちゃった」
苦笑いする。聞かされたばかりの宇野の言葉。傷ついてない、は嘘だ。
だけど、役者という仕事にきちんと向き合ってこなかった自分への罰だとも思う。
視線を脇に滑らせる。コウの無数の書きこみがある台本。
知らないところで守られて、助けられていた。
でも、それだけじゃ嫌だ。
私だって並びたい。
やる気がないのは最低
マリコの言葉が再び頭に浮かんだ。
はいカットはいチェック! 城之内の声。
松葉杖を突きながら仕事をこなしているユリア。
そして、
うちの有能マネージャーは、俺のあこがれる役者でもあるんです。だから絶対、大丈夫です
ずっと信じてくれている、幼なじみ。
だれもが、歯を食いしばってスポットライトの下に立っている。
私も一緒に立ちたい。
ヒーローになりたい、でもなく。
意地でもなく。
役者になりたい。
そこから始めたい。
守るだけじゃなくて、守られるだけじゃなくて。
あの場所でがんばって、自信がついたら、そのとき。
ようやく目を合わせられる気がする。自分の、心にある想いと。
「じゃ……モデルになったのは」
驚きの所為か、ずいぶん掠れた声が出た。コウは小さく頷くと、
「有名になるって約束したから」
布団の上に両手をついて答えた。
約束だったからって。
そんな簡単に。
「……だって」
口元を両手で覆う。手が小刻みに震えた。
あれからすぐ売れなくなっちゃったでしょ? だからももちゃんの代わりに、俺がテレビに出ようと思ったんだ
あんなふうに言ったくせに。
なにを言っていいかわからない。
なにを思っていいのかも、わからない。
いつか見た、コウのモデルの写真が頭の中を巡る。色気があって、堂々として、美しい写真の数々。
たくさんの記者に囲まれた記者会見。期待と羨望を一身に浴びて――
どうしても会いたい人がいたから、日本に帰ってきました
あの、ことば。
あ、と思ったときには目の端が熱く潤んでいた。反射的にまばたきをすると、ぽろりと涙が一粒、弾かれた。口元を手で覆ったまま、涙を隠そうと俯く。
「ももちゃん」
深くて優しい声。心の奥をつかもうとするような。
コウの手が、そっと桃子の手首に添えられる。その熱さにびくりと震える。
「顔、あげて」
やだ。
首を横に振ると、口元を覆っていた手を剥がされる。熱く潤んでいる自分の目を、覗きこまれる。コウが小さく、息を飲む。
目の前で、コウの姿が万華鏡のように色と姿を変えていく。小さかった幼なじみ。堂々とカメラの前に立つ役者。色気あふれるモデル。笑う、怒る。
桃子に触れる。
頬があつい。きっと真っ赤になっている。自分の気もちがどこにあるのか、どうなってるのかわからない。
「ももちゃんは」
そっとコウが桃子の頬に触れる。掌がそっと、頬をつつむ。
「俺の初恋だった」
はつこい。
かわいらしい響きと不似合いなほど、真剣な表情でコウは言う。
「十六歳のももちゃんを見て、びっくりした」
すっと、下りてきた親指の腹が唇に触れる。おもわず肩が揺れる。
それなのにコウは、セクシャルな仕種と反対に爽やかに笑った。
「前の事務所の人たち、馬鹿だよなぁ。ももちゃんはあんなにかわいかったのに」
パキン、と。
それまで心の中にあった固い塊が、割れる音を聞いた。
真夜中過ぎの古びたアパート。雑誌やダイレクトメールが散乱するこの小さな部屋で、桃子はコウを見つめる。
ぶわり、と視界が滲んで、ああまた泣いてしまった、と思った。
だけどもう、うつむくことはなかった。
涙を拭い取ってくれるコウの手を、嬉しいと感じたから。
「ばかだよ」
それなのに、非難めいた言い方をしてしまう。
「有名になんて、なれるかもわかんないのに」
宇野が取引だなんて、そんなこと言わなかったら、あのままアメリカでバスケ少年をしていたはずだ。
そのままプロになることを夢見たりして、叶っても叶わなくても、自分に合う道を探そうとする。そのへんにいる、十代の少年たちと同じように。
桃子の知らないところで、途方もない挑戦を強いてしまった。
そのことを、どう受け止めたらいいんだろう。
「でも、なれたし」
コウは笑った。頬に流れ落ちる桃子の涙を拭いながら、
「ヒーローに、不可能はないんだよ」
そう言った笑顔はどこか可愛くもあった。
ああもう。
くしゃりと笑ったら、その拍子にまた涙が滲んだ。
かなわない、と思った。
この幼なじみには、かなわない。
「ねぇ、それより」
コウが自然なしぐさで桃子の腕を引く。桃子はあっさりとコウの胸に鼻先から突っ込んだ。
「あ、」
コウの両手が背中と腰を強く抱く。鼻の先で、コウがいつもつけている香水の匂いが香った。
「俺のこと、どう思ってる?」
視線だけを上向ける。今までの柔らかな笑顔じゃない、どこか切羽詰まった顔が桃子を見下ろしていた。片耳があたるコウの胸から、意外なほど速い鼓動の音を聞く。
コウも緊張してるんだ。
鼓動の速さに、胸がぐっと絞られた。自分のせいで乱れた感情の、その片鱗を見つけてそっと息を飲む。
ふしぎだ。
ついさっき、タクシーの中ではこんなふうになることを、想像さえしてなかったのに。
そして同時に、ほんとうに? と自分に問う。
予感は、いくつも散らばっていた。
ずっと見ない振りをして、子ども時代の思い出で身を守っていた。
ばかは、私だ。
だけど。
「……明日から、もっと演技がんばる」
噛み合わない答えに、コウがとまどったような顔をする。その表情はコウを少しだけ昔のこうちゃんに戻して、ふっと頬がゆるんだ。
こうちゃんと、目の前にいるコウと。
その間に立つ、桃子の知らないコウ。
すべてが、このひとを形作っている。
その事実がすとんと、胸に落ちる。
「今まで、流されて演技してた気がする」
コウを見つめて言う。
「前もそうだった。ヒーローになりたいって、それだけだった。だからヒーローが終わったら、仕事なくなっちゃった」
苦笑いする。聞かされたばかりの宇野の言葉。傷ついてない、は嘘だ。
だけど、役者という仕事にきちんと向き合ってこなかった自分への罰だとも思う。
視線を脇に滑らせる。コウの無数の書きこみがある台本。
知らないところで守られて、助けられていた。
でも、それだけじゃ嫌だ。
私だって並びたい。
やる気がないのは最低
マリコの言葉が再び頭に浮かんだ。
はいカットはいチェック! 城之内の声。
松葉杖を突きながら仕事をこなしているユリア。
そして、
うちの有能マネージャーは、俺のあこがれる役者でもあるんです。だから絶対、大丈夫です
ずっと信じてくれている、幼なじみ。
だれもが、歯を食いしばってスポットライトの下に立っている。
私も一緒に立ちたい。
ヒーローになりたい、でもなく。
意地でもなく。
役者になりたい。
そこから始めたい。
守るだけじゃなくて、守られるだけじゃなくて。
あの場所でがんばって、自信がついたら、そのとき。
ようやく目を合わせられる気がする。自分の、心にある想いと。