ヒーローに恋をして
 ガラス張りの窓には都心の夜景が広がっている。ボックス席に腰掛ける三人は窓の外を見ることもせず、テーブルに置かれたタブレットを見下ろしていた。

「なにこれ」

 タブレットから顔を上げたマリコが眉を顰める。

 桃子はソファの背もたれに体を預けると、宇野がタブレットのスイッチを切る様子をぼんやりと見ていた。頭の中には、今しがた映っていた会見の様子が残像として居座っている。

 彼女は全然関係ないんです

 コウの言葉と、笑顔。

「コウ君移籍するんですか?」
 顔を上げると、青葉がグラスの乗ったお盆を片手にテーブルに跪いていた。

「いや」
 宇野は素早く答えたあと、テーブルの端の灰皿を引き寄せた。眉を寄せて、
「いや、まぁ、そうだね。ウチが予定してる仕事もあるから、それ終わったら」
「ちょっと、私の前で吸わないでよ」
 シガレットケースを取りだす宇野に、マリコがぴしゃりと言う。宇野は小さく頭を下げて、出しかけた煙草をスーツの胸ポケットにしまった。
 マリコは桃子を見て、あんたも気をつけるのよ、と眉を寄せる。

「役者は喉を守りなさい。顔はスタッフが作ってくれるけど、喉はそうはいかないから」
 はい、と答えたつもりなのに、くぐもった声が微かに開いた口から漏れた。

 役者。

 少し前なら胸の中で輝いていた言葉が、今は重たく響く。

 桃子は、俺が守るから
 
 役者の桃子を守るために、コウは離れていってしまった。
 それなら。
 もし桃子が役者じゃなくなれば、コウは戻ってくるんだろうか――?

「あんた、前よりひどい顔になってるわね」
 マリコが呆れたように両腕を組んだ。
「そんなだからコウに振られるんじゃない」
 驚いて顔を上げる。マリコは片眉を上げて、
「あれだけベタベタしてたら、みんな知ってるわよ」
 あっさりと言われて顔が熱くなる。あれだけって、どんなだろう。

「どうせバレてるんだから、余計なこと考えなくていいんじゃない」
「…………え?」
「見たわよ週刊誌」
 ドキン。
 胸が強く鳴る。おもわず背筋を伸ばした。

 マリコはソファに背を預けると、足を組んだ。
「私たちの商売で一番まずいことって、なんだと思う?」
 ふいの質問に面食らいながらも、反射的に口を開く。開きながら、答えを探る。
 
 役者にとって、一番まずいこと。

 この間のように、NGを連発すること?
 それとも、マリコが言っていたやる気のことだろうか。

 考えていると、
 コトン。横から伸びてきた手が、小皿に並んだオリーブを置いた。

「忘れられることですね」
 小皿から手を離した青葉が答える。

「人の記憶に残らない。消えたことさえ認識されなくなったら、それは芸能生活の終わりです」
 穏やかに答える青葉が、音を立てずに灰皿を元の位置に戻す。

「そう」
 マリコの指がスティックに刺さったオリーブをつまむ。

「スキャンダルもガセネタも、ないよりマシ。それで人の話題に昇るんだったら、甘んじて受けてればいいのよ」
 私だってほら、こんな性格だから今までけっこう叩かれてるしね、とマリコはおかしそうに歯を見せる。
「それが、人の目につく仕事を選んだ私たちの責任よ」

 皿の上のオリーブをじっと見つめる。頭の中で、言われた言葉が回っている。
 胸の奥の、この数日静かだった場所が、小さく動く。

「トウコちゃん」

 顔を上げると、青葉が目元を緩ませた。片手にお盆を持って、相変わらずの魅力的な笑顔で、
「カメラの前では、僕らはヒーローだった。でも役が終わったら? 僕はただの若造で、君は女の子だった」

 ヒーロー。

 心の奥が、トクンと鳴る。

「君はどうしたい? ヒーローじゃない、女の子の桃子ちゃんは」
「……わたし?」
 青葉がふっと笑う。
「僕にとって、プラネットは楽しい仕事だった。みんなを守って、戦って勝って、子どもたちの人気者で。でも」
 くるり。長い指がお盆をきれいに一回転させる。
「番組が終わった後も、人生は続いていくから。考えたんだ。ヒーローじゃない僕は、なにができるか」

 かつての仕事仲間であり兄のようだった先輩は、都心の夜景に視線を向けた。
「そうしたら、新しい自分に出会えた。前ほど華やかじゃないけど、それなりに苦労もあるけど。僕は今の生活を気に入ってるよ」
 あとはかわいい彼女を探さないとね。そうおどけたように付け加えて、テーブルから一歩離れた。
「それじゃ、どうぞごゆっくり」
 まっすぐな姿勢から、ひとつお辞儀をする。昔のように飛んだり跳ねたり、大きなアクションをしたわけじゃない。それなのにとても、きれいな仕種だった。一日に何度も同じ動作を繰り返して、それが様になっているひとの姿だった。

 フロアを歩く青葉はホールスタッフにすれ違いざま指示を出し、厨房へと消えていった。その後ろ姿を見つめながら、いつの間にか詰めていた息をそっと吐く。
 
 正面に座る宇野を振り返る。めがねの奥、十二年前と変わらない目が桃子を見返していた。
 思い出す。十二歳の桃子に差し出された小さな名刺。

 きみもヒーローになれるよ

 あの言葉が、白く光って胸に落ちてきた時のこと。

「宇野さん」
 胸の奥が小さく鳴っていた。それは音楽のように、内側から桃子の心を叩く。

「私はヒーローに、なれてましたか?」

 なにを確かめたいのか、自分でもよくわかってなかった。
 唐突な質問に宇野は一瞬目を見張り、その後ふっと笑った。

「でなけりゃ十二年も世話してないだろ」

 その言葉にふっと緊張が解けて、笑った。

 ずっとヒーローになりたかった。
 だけどヒーローじゃなくても、ただの女の子でも。

「コウを取り返してもいいですか」

 一つだけ叶えたいことがある。

「ずっと一緒にいたいんです」

 並びたいと思った。守るんじゃなくて、守られるんじゃなくて。
 コウの隣に、並べる自分でいたい。

 呆れるかと思った宇野は意外にも面白がるような表情で、腕を組んだ。
「やれるのか?」
 はい。今度は大きな声が出た。大きすぎて、離れた席のカップルが驚いたように振り返った。

 戦え。

 自分に命じて、おろした拳を握りしめる。
 守るから、なんて言われて、安全な場所に座りこんでるわけにはいかない。
 
 守られて喜ぶお姫さまじゃない。
 だってコウは言ってたじゃない?
 
 ももちゃんは、僕のヒーローだって。 
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