ヒーローに恋をして
 ドキドキしている。今朝からずっと。
 
『世間の人は彼女がヒロインの映画を見たいのだろうか』
 
 半年前に書かれた記事。答えは映画を見て判断してくれ、と城之内は言った。
 その判断が下される日が、とうとう来た。

 楽屋で施された、いつもより濃い化粧。輪郭を縁取るように巻いた髪をアップにして、耳の前の毛はカールして垂らしている。サテン地の赤いワンピースに、シャンパンゴールドのハイヒール。
 八ヶ月前、草臥れたシャツにジーンズで工具セットを持っていた女の子はどこにもいない。
 
 鏡の前には、舞踏会に現れるシンデレラのように着飾った自分が映っていた。

「すごくきれいよ」
 スタイリストが、立ち上がった桃子のワンピースの裾を整えながら言う。桃子は薄く笑い返した。緊張で、口の中がカラカラに乾いている。

「トウコ」
 楽屋の扉から宇野が顔を覗かせる。
「これ今日のタイスケ(タイムスケジュール表)でこっちが台本。あと」
 ほら、とペットボトルを渡される。
「飲んどけ」
 
 ストローが刺さっているペットボトルが手に押し付けられる。あ、と思った。
ずっと昔も、これと同じことがあった気がする。

 喉渇いたろう。水分取っとけ

 そうだ。
 十二年前、公園でのロケ。あの時も、こんな風にペットボトルを渡してくれた。

 そんなことを思い返していると、

「そのままでいい」
 ふいに宇野が言った。

「緊張してろ。迷え。悩んで、だから強い奴に憧れるんだ」
 
 宇野はメガネの中央を指先で押した。唇が上向いて、笑っているのがわかる。

 言葉が心に落ちていく。
 迷って、悩んで、だから強い奴に憧れる。
 
 だからヒーローに憧れる。

「宇野さん」

 一緒にいた十二年。煙草の銘柄が三度変わったことを知っている。ずっと守ってくれていた、兄のような社長。
 このひとに、十二年間を後悔させない役者になりたい。

 この感覚を覚えておこう。
 マリコや青葉。そして城之内。たくさんの人に背中を押されて、ここまで来た。

 ペットボトルをぐっと煽る。震える喉を、心臓を、冷たい水が宥めていく。

「いってきます」
 見ててください、とはもう言わない。だってわかってる。この人はちゃんと桃子を見てくれているから。

 宇野は腕を組んで頷いた。
「いってこい」
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