ショートショート集 ~パンドラの箱~
「皆さんが研究熱心で立派な方々と親友から聞き、是非、協力させていただきたいと思い、迷惑だと感じたのですがきてしまいました。私は投資家をしております。名刺がこれです」
「投資家の方ですか。一目見て普通の方とは違うオーラを感じましたよ」
男の梱包したような飾り立てた丁寧な口調に、責任者が答える。
第一印象は最高の状態だ。更に男は言葉を続けることにした。
「研究に協力させていただけるのであれば、全面的に資金協力したいと考えております。勿論、返金など無用です」
「目的はあの薬ですか?」
返金無用の資金提供など虫が良すぎると、責任者は感じ取ったのだろう。
薬の購入に焦ったせいで、単刀直入に話題に入りこんでしまった。
深く勘ぐられて、男は慌てた。
「いいんですよ。この研究に興味がないという人の方が、逆にどうかしている。私はあなたのような人のほうが信用できる。心を見透かすことが簡単な――まさに『透明人間』のような人がね」
ところが、責任者の答えは意外なものであった。
男の言動の意味を理解しつつも、薬を提供すると遠回しに言ったのだ。
その責任者の言葉が合図だったかのように、一人の薬剤師が小瓶を棚から出してきた。
先日、情報提供者に見せられた透明な小瓶の中、宝石のように輝く液体を見て、男は息を呑む。
「まず約束してください。他言してはならないが絶対条件です。第二に研究の成果を記録したいので、使用したら必ず後日、報告してください」
言うと責任者は、薬剤師から小瓶を受け取って、男に手渡した。
開ける衝動にかられて、瓶の口に手をかける男を、責任者が押しとどめる。
「待ってください。まだ説明の途中なのです。今渡した液体は服用すれば体を、吹き付ければその部分が透明になる薬です。お客様にはもう一つ、商品を渡しているのです。それがこちらの錠剤です」
錠剤のほうは赤い錠剤とは対照的に、青い光を放っていた。
効能がわからないままに、男は錠剤を受け取る。
「消える液薬の効果を消すのがその薬です。絶対に手放さないでください。飲めば一分以内に姿が現れます。体に影響があるとも限らないので、透明になる時間は三時間まで。すぐに元の姿に戻りたい時もご使用ください。それと、その薬の使用場所は一人でいられる所をお勧めします。急に姿が現れたら、ばれてしまいますからね」
責任者は男に丁寧な説明を続けた。
無理もないだろう。研究段階の商品の存在が一般に知れ渡ってしまえば、誰かに利用されてしまう恐れがあるのだ。そうなってしまえば、彼等研究者の苦労は水疱と化す。
とはいえ、責任者の説明に男は首を傾げた。
透明人間になってすぐに元の姿に戻りたい時――など、万が一にもありえない。十二分に効果を堪能してから元の姿に戻るはずと考えたのだ。
「説明は以上です。あっ、三時間までの使用なら、副作用の心配はしないでいいですよ。実験で人体に影響はないと確認済みです。では、じっくりご堪能ください」
金額を訊くと責任者はかなりの額を要求してきた。
「研究費と需要の高さから、そう設定させてもらっています」との答えであった。
更に責任者は言葉を続けた。
「我々は薬をお客様がどんな用途で使用したか介入しない代わりに、責任は全てお客様にあるとしています。そう、それが悪いことであったとしても」
責任者の両目の奥には、漆黒の闇のような悪意が感じ取れた。まるで、使用者の行動の成り行きを、楽しんでいるかのようであった。
男は金を全て紙幣で払い、薬局を出た。
そして今後の行動について考える。
説明を見ると、服用は一日一回、蓋カップ一杯。内容量十五杯分。使用時間は三時間まで。
用法用量をまもり正しくお使いください。と、記載されていた。
大金をはたいて手に入れた薬である。有意義に消化したい時間だ。次は、あの責任者に売ることは出来ませんと言われるかもしれない。
透明になる機会などないのだからと、男は真剣に考えた。
まず思いついたのが銀行強盗であった。自分だけでなく持った物も消せるのだから、可能だと感じた。しかし、慎重な男は思い留まった。
いくら透明人間になったとはいえ、金庫から金を取り出せるだろうか。
警備員がいるはずだし、紙幣番号も記録しているはずだ。足がつくような気がしてならなかった。それに男は株で成功しているので、金に対しての欲は薄かった。
次に思いついたのが覗きであった。
仕事をする中で一人の女性に想いを寄せていた。
結婚を前提に付き合ってくれと、数週間前に告白して断られていたのだ。
それでも諦めきれなかった。遠目で仕事をしている姿を見ているだけでも、心が癒された。
もし透明人間になって彼女の部屋に入れたらと、想像するだけで男は興奮で震えた。
いや、どうせ見えていないのだ。風呂からあがった彼女の背後から襲いかかっても、ばれないのではないか。
見えない自分に全裸で押し倒された女性が、恐怖で声を上げる。押さえてしまえば男対女だ。確実に力では分がある。
男は入念な準備をはじめた。
得体の知れないものに襲われて、女性が大人しくするとは思えない。男は束縛するためのロープと、口を塞ぐガムテープをまず購入した。
そして、道具と透明になる薬をカバンに入れると、駅へと足を運んだ。
女性の職場は知っていても、自宅がどこにあるのか知らなかったからだ。
電車に乗って目的地に着くと、会社の入口で女性が出てくるのを待った。
一時間、二時間と時間が経過していくが、男は苦に感じなかった。それどころか、完璧なイメージをつくり上げ、妄想を繰り返した。
勤務終了時間がくると、会社員たちが出てきた。
その何人かの会社員の中に、目的の女性はいた。
一人の男性と肩を寄せ合いながら――
男はそこでようやく振られた訳を知った。女性には既に、想いを寄せている男性がいたのである。次に目的の成就が困難だというのも理解した。
女性が悲鳴をあげたら、確実に男性が助けに入るだろう。姿は見えなくても触れるのは可能だ。引き離される可能性が高い。
普通は諦めるところだが、男は違った。男性を一つの障害と捉えたのだ。
殺そう。姿が見えなければわかりっこない。彼女に相応しい人間は俺しかいないんだ。
買ってきたロープもある。背後から首を絞めることも出来る。見えない俺は無敵だ。神なんだ。殺そうと思えば誰だってやれる。
妄想は大きな勘違いを、男の脳裏に構築させていた。
薬を飲んで体に吹き付ける。完全に透明になったのをショーウィンドウで確認すると、肩を並べて歩く二人をつけた。
すると車通りの多い交差点で二人はとまった。信号待ちだ。二人の眼の前を大型トラックが通り過ぎようとする。
そこで男は行動に出た。男性を背後から思いっ切り押したのだ。
予想外の攻撃に男性は前に倒れこんだ。そこに交差点に入ってきた大型トラックが突っこんできた。
避けることも出来ないまま男性は大型トラックに轢かれていた。
そう、愛する女性の目の前で――
女性の悲鳴が響き渡り、大型トラックが急停車する。女性が揺らしても男性は出血を流したまま、ぴくりともしなかった。
同じく、交差点で信号待ちをしていた人も集まってきた。
「救急車!」「医者はいないか!」といった声が次々と響く。
目的を達成した男は上機嫌だった。喜びで小躍りしたい気分に駆られた。そこで、自分の姿は見えてなかったのだと改めて実感した。
小躍りしても誰も自分を睨みつけない。周囲の目は気にしないでいい。
声は出さず「ざまあみろ!」と心で叫び、男が飛び跳ねた瞬間だった。
男は反対車線を走る車に撥ね飛ばされた。物凄い衝撃で地面に叩きつけられた男は、体を起こそうとする。
ところが、自分の体が動かせないのに気づいた。衝撃で脊髄を損傷したのである。
「誰か、助けてくれ!」
声をあげるが騒動の中だ。誰も気づいてない様子だった。
いや、気づけないのだ。
もとの姿に戻れる薬を飲もうにも体が動かせないので無理だ。
男は必死に叫んだ。声の源を不思議がる者はいたが、発見まで至らない。
次第に男の意識は朦朧としてきた。命の灯火が消えようとしていたのだ。
激痛で動けない男の視線の先で、女性に寄り添われた男性は救急車に乗せられていく。
そして、騒ぎが収まると野次馬たちも姿を消していった。
一週間後、男が命を落とした現場で一人の女子高生がふとしたことを友達に訊いた。
「ねえ、最近ここら辺、変な臭いがしない?」
「うん……排水溝の中でネズミでも死んでいるのかな?」
その答えを聞いた少女たちは、不気味がりながら周囲を窺う。
そして、もう一人の女子高生が豪快に足を滑らせて転んだ。
「あははっ、何やってるの。何もないとこで転ぶなんてさー」
「違うよ。何かわからないけど、大きな物に躓いたような気がした!」
「何にもないって! 気のせい、気のせい!」
はしゃぐ女子高生の傍らで、数匹の蝿たちが飛び回り続ける。
そう、視覚動物の人間は見たものしか信じない。臭気をとらえるのは、ほんの僅かな生物たちだけなのだ――
「投資家の方ですか。一目見て普通の方とは違うオーラを感じましたよ」
男の梱包したような飾り立てた丁寧な口調に、責任者が答える。
第一印象は最高の状態だ。更に男は言葉を続けることにした。
「研究に協力させていただけるのであれば、全面的に資金協力したいと考えております。勿論、返金など無用です」
「目的はあの薬ですか?」
返金無用の資金提供など虫が良すぎると、責任者は感じ取ったのだろう。
薬の購入に焦ったせいで、単刀直入に話題に入りこんでしまった。
深く勘ぐられて、男は慌てた。
「いいんですよ。この研究に興味がないという人の方が、逆にどうかしている。私はあなたのような人のほうが信用できる。心を見透かすことが簡単な――まさに『透明人間』のような人がね」
ところが、責任者の答えは意外なものであった。
男の言動の意味を理解しつつも、薬を提供すると遠回しに言ったのだ。
その責任者の言葉が合図だったかのように、一人の薬剤師が小瓶を棚から出してきた。
先日、情報提供者に見せられた透明な小瓶の中、宝石のように輝く液体を見て、男は息を呑む。
「まず約束してください。他言してはならないが絶対条件です。第二に研究の成果を記録したいので、使用したら必ず後日、報告してください」
言うと責任者は、薬剤師から小瓶を受け取って、男に手渡した。
開ける衝動にかられて、瓶の口に手をかける男を、責任者が押しとどめる。
「待ってください。まだ説明の途中なのです。今渡した液体は服用すれば体を、吹き付ければその部分が透明になる薬です。お客様にはもう一つ、商品を渡しているのです。それがこちらの錠剤です」
錠剤のほうは赤い錠剤とは対照的に、青い光を放っていた。
効能がわからないままに、男は錠剤を受け取る。
「消える液薬の効果を消すのがその薬です。絶対に手放さないでください。飲めば一分以内に姿が現れます。体に影響があるとも限らないので、透明になる時間は三時間まで。すぐに元の姿に戻りたい時もご使用ください。それと、その薬の使用場所は一人でいられる所をお勧めします。急に姿が現れたら、ばれてしまいますからね」
責任者は男に丁寧な説明を続けた。
無理もないだろう。研究段階の商品の存在が一般に知れ渡ってしまえば、誰かに利用されてしまう恐れがあるのだ。そうなってしまえば、彼等研究者の苦労は水疱と化す。
とはいえ、責任者の説明に男は首を傾げた。
透明人間になってすぐに元の姿に戻りたい時――など、万が一にもありえない。十二分に効果を堪能してから元の姿に戻るはずと考えたのだ。
「説明は以上です。あっ、三時間までの使用なら、副作用の心配はしないでいいですよ。実験で人体に影響はないと確認済みです。では、じっくりご堪能ください」
金額を訊くと責任者はかなりの額を要求してきた。
「研究費と需要の高さから、そう設定させてもらっています」との答えであった。
更に責任者は言葉を続けた。
「我々は薬をお客様がどんな用途で使用したか介入しない代わりに、責任は全てお客様にあるとしています。そう、それが悪いことであったとしても」
責任者の両目の奥には、漆黒の闇のような悪意が感じ取れた。まるで、使用者の行動の成り行きを、楽しんでいるかのようであった。
男は金を全て紙幣で払い、薬局を出た。
そして今後の行動について考える。
説明を見ると、服用は一日一回、蓋カップ一杯。内容量十五杯分。使用時間は三時間まで。
用法用量をまもり正しくお使いください。と、記載されていた。
大金をはたいて手に入れた薬である。有意義に消化したい時間だ。次は、あの責任者に売ることは出来ませんと言われるかもしれない。
透明になる機会などないのだからと、男は真剣に考えた。
まず思いついたのが銀行強盗であった。自分だけでなく持った物も消せるのだから、可能だと感じた。しかし、慎重な男は思い留まった。
いくら透明人間になったとはいえ、金庫から金を取り出せるだろうか。
警備員がいるはずだし、紙幣番号も記録しているはずだ。足がつくような気がしてならなかった。それに男は株で成功しているので、金に対しての欲は薄かった。
次に思いついたのが覗きであった。
仕事をする中で一人の女性に想いを寄せていた。
結婚を前提に付き合ってくれと、数週間前に告白して断られていたのだ。
それでも諦めきれなかった。遠目で仕事をしている姿を見ているだけでも、心が癒された。
もし透明人間になって彼女の部屋に入れたらと、想像するだけで男は興奮で震えた。
いや、どうせ見えていないのだ。風呂からあがった彼女の背後から襲いかかっても、ばれないのではないか。
見えない自分に全裸で押し倒された女性が、恐怖で声を上げる。押さえてしまえば男対女だ。確実に力では分がある。
男は入念な準備をはじめた。
得体の知れないものに襲われて、女性が大人しくするとは思えない。男は束縛するためのロープと、口を塞ぐガムテープをまず購入した。
そして、道具と透明になる薬をカバンに入れると、駅へと足を運んだ。
女性の職場は知っていても、自宅がどこにあるのか知らなかったからだ。
電車に乗って目的地に着くと、会社の入口で女性が出てくるのを待った。
一時間、二時間と時間が経過していくが、男は苦に感じなかった。それどころか、完璧なイメージをつくり上げ、妄想を繰り返した。
勤務終了時間がくると、会社員たちが出てきた。
その何人かの会社員の中に、目的の女性はいた。
一人の男性と肩を寄せ合いながら――
男はそこでようやく振られた訳を知った。女性には既に、想いを寄せている男性がいたのである。次に目的の成就が困難だというのも理解した。
女性が悲鳴をあげたら、確実に男性が助けに入るだろう。姿は見えなくても触れるのは可能だ。引き離される可能性が高い。
普通は諦めるところだが、男は違った。男性を一つの障害と捉えたのだ。
殺そう。姿が見えなければわかりっこない。彼女に相応しい人間は俺しかいないんだ。
買ってきたロープもある。背後から首を絞めることも出来る。見えない俺は無敵だ。神なんだ。殺そうと思えば誰だってやれる。
妄想は大きな勘違いを、男の脳裏に構築させていた。
薬を飲んで体に吹き付ける。完全に透明になったのをショーウィンドウで確認すると、肩を並べて歩く二人をつけた。
すると車通りの多い交差点で二人はとまった。信号待ちだ。二人の眼の前を大型トラックが通り過ぎようとする。
そこで男は行動に出た。男性を背後から思いっ切り押したのだ。
予想外の攻撃に男性は前に倒れこんだ。そこに交差点に入ってきた大型トラックが突っこんできた。
避けることも出来ないまま男性は大型トラックに轢かれていた。
そう、愛する女性の目の前で――
女性の悲鳴が響き渡り、大型トラックが急停車する。女性が揺らしても男性は出血を流したまま、ぴくりともしなかった。
同じく、交差点で信号待ちをしていた人も集まってきた。
「救急車!」「医者はいないか!」といった声が次々と響く。
目的を達成した男は上機嫌だった。喜びで小躍りしたい気分に駆られた。そこで、自分の姿は見えてなかったのだと改めて実感した。
小躍りしても誰も自分を睨みつけない。周囲の目は気にしないでいい。
声は出さず「ざまあみろ!」と心で叫び、男が飛び跳ねた瞬間だった。
男は反対車線を走る車に撥ね飛ばされた。物凄い衝撃で地面に叩きつけられた男は、体を起こそうとする。
ところが、自分の体が動かせないのに気づいた。衝撃で脊髄を損傷したのである。
「誰か、助けてくれ!」
声をあげるが騒動の中だ。誰も気づいてない様子だった。
いや、気づけないのだ。
もとの姿に戻れる薬を飲もうにも体が動かせないので無理だ。
男は必死に叫んだ。声の源を不思議がる者はいたが、発見まで至らない。
次第に男の意識は朦朧としてきた。命の灯火が消えようとしていたのだ。
激痛で動けない男の視線の先で、女性に寄り添われた男性は救急車に乗せられていく。
そして、騒ぎが収まると野次馬たちも姿を消していった。
一週間後、男が命を落とした現場で一人の女子高生がふとしたことを友達に訊いた。
「ねえ、最近ここら辺、変な臭いがしない?」
「うん……排水溝の中でネズミでも死んでいるのかな?」
その答えを聞いた少女たちは、不気味がりながら周囲を窺う。
そして、もう一人の女子高生が豪快に足を滑らせて転んだ。
「あははっ、何やってるの。何もないとこで転ぶなんてさー」
「違うよ。何かわからないけど、大きな物に躓いたような気がした!」
「何にもないって! 気のせい、気のせい!」
はしゃぐ女子高生の傍らで、数匹の蝿たちが飛び回り続ける。
そう、視覚動物の人間は見たものしか信じない。臭気をとらえるのは、ほんの僅かな生物たちだけなのだ――