鬼に眼鏡

　父は勤務中に突然の腹痛に襲われ、病院に駆けこんだという。
　診察の結果、盲腸と診断された。
　すぐに手術となり、入院も決定した。そこで手術前の準備となったのだが――
「担当の看護師が、母さんだったらしいんだ……で、お前、盲腸の時どうするか知ってる？」
　ひと呼吸おいた後、兄は雅夫に質問する。
「全身麻酔して手術じゃないの？　普通……」
「お前さー。それじゃぁ、笑い話になんないだろ。もっと前の段階だって」
　兄は、ひと呼吸おいて口を開く。
「剃るんだよ、あそこの毛。最悪だろ？　美人看護婦に見られるんだから」
「で？　それを母さんがした？」
「母さんに聞いたら、予想と反して小さかったって……」
「おかしい！　その話、親父からじゃなく母さんから聞いたの!?　どこから母さん視点？」
「棒から藪。あたりから」
「ことわざを下ネタに変換するな！」
　語り続ける兄に突っこむと、雅夫は兄に本題を訊く。
「で？　肝心の眼鏡は？」
「親父は営業の時に眼鏡してたみたいでさ、当然、病院に駆けこんだ時も眼鏡を掛けてた。眼鏡をはずしたのは、手術室に入る直前だったんだと――で……」
　皆が素顔を見て、相当恐れたに違いないと雅夫は思う。
　だって、親父時の顔は自分に似ている。経験上、そうであるということは想像がつく。
「けど、母さんは知ってた。親父と接したから性格をさ。顔と性格のギャップに驚いたけど、妙に好感が持てたらしいんだな。ほら、普段馬鹿やってる奴が、成績優秀だったり、真面目な発言したりしたら『お！』と思う時あるだろ？」
「ギャップねぇ……」
　雅夫の脳裏に、玲奈の言葉が思い起こされる。
〈むー……雅夫の顔ってさ、見慣れてくると癖になるんだよね〉
〈それに雅夫が優しいってことは私も知ってるし……〉
　おそらく、母も同じような印象を受けて父とゴールインしたのだろう。
「つきましては……お前、玲奈ちゃんとはどこまで進んだの？」
　その時、突然、兄が思いがけない質問を雅夫にした。
「はぁ？　なに言ってんの！　俺とあいつは幼馴染みなだけで、それ以上は――」
「そうなのか？　俺、告ったことあるけど、断られたから、お前たち付き合ってると思った」
「いつ、告った!?　なぜ、告った？　信じらんねぇ！　何!?　この敗北感！」
「実際、敗北したのは俺なんだけどな。玲奈ちゃん言ってたぞ。好きな人がいるんだけど、告白しずらい。自分の顔に劣等感持ってるみたいだからって……」
　雅夫は動きをとめる。自分のことを玲奈は言ったのではないかと――
「可愛い子だな。玲奈ちゃんは……お前の行く末案じて、眼鏡店に連れて行ったんだろ。もう少し優しく接してあげないと可哀そうだぞ」
「兄貴！」
　自室に入ろうとした兄を、雅夫は呼びとめた。
「サンキュー。俺、就職活動頑張るわ」
　最後のねぎまにかぶりつきながら、「当たり前だろ」という兄の背中が、何故か妙に格好よく見えた。