鬼に眼鏡
 もう、眼鏡を掛けて写真を貼った履歴書は必要ない。
 帰宅した雅夫は、自室のベッドに寝転びながら高揚していた。
 希望と不安が複雑に混在してはいるが、ともあれ、スタートラインに立てたことが雅夫には一番の喜びだった。
 だから今日は、自作の神棚に向かってこう祈るのだ。
「神様、仏様、七福神様に天使様に守護霊様に、沖縄土産のシーサー様! どうも今日はありがとうございました! 猪狩雅夫、この顔に生まれて幸せです!」
 両手をパンと叩き祈った雅夫は、すぐさま手鏡を取り出して自分を見る。
 ――そこにはいるのは、いつもと変わらない『強面』の自分だ。
「わかってくれる人もいるんだ! 世の中、満更じゃない!」
 喜びを声にして吠えた途端、
「ドゴッ」という鈍い激突音が、窓のほうで響いていた。
 見ると、そこには窓に張りついている人の顔がある。
 その奇妙に潰れた顔が、口をパクパクと開いて何か訴えはじめた。
 雅夫は、ため息を吐いて腰を上げると、鍵を上げて窓を開ける。
「またお前……玄関からこいって言ってるのに……」
 窓に顔を打ちつけて、顔が赤くなっている玲奈に呆れながら、雅夫は言う。
「雅夫! どうだった? 面接受かった?」
「そのまま現地で採用って言われた。けど、眼鏡がさ……」
 聞いてきた玲奈に答え、雅夫は壊れた眼鏡を掛ける。玲奈はそんな雅夫を見て笑った。
「じゃあ、もうしばらく素顔の雅夫が見れるんだ。やったー!」
「やったー? 何それ? 意味わかんないんだけど……」
 玲奈の喜びを見て、雅夫は首を傾げる。
「私は眼鏡掛けている雅夫より、素顔の雅夫のほうが見慣れているから好き。私にとってはどっちも優しい雅夫だもん」
 そう言った玲奈に、雅夫はお礼を言おうとして口を開けたが声が出ない。
「あっ、ちょっと待って!」
 静寂の間を切るように玲奈が突然、窓から離れ、部屋の奥へと引っこんだ。
 何をする気なのか雅夫は覗きこむが、さすがに無理があって断念する。
「はいこれ!」
 玲奈が言って雅夫に手渡してきたのは、奇麗に包装された四角い物だった。
「開けてみて!」
 玲奈に言われて包装紙を破り、箱を開けると、中から印鑑が出てくる。
 当然、掘られている文字は猪狩だ。雅夫は玲奈を見た。
「お前これ……」
「就職祝い。仕事に印鑑って結構使うでしょ……だからあげる」
 もらった印鑑を雅夫は握りしめた。心の中でずっと大切にすると誓って。
 すると――
「あー、良かった! これで、初任給で奢ってもらえる!」
 突然、玲奈がとんでもないことを言いはじめる。これに、雅夫は思わず身を乗り出した。
「ちょっと待てっ! お前、俺の行く末を心配して親身になってくれてたんじゃないの?」
「なにそれ? あ……私、カウンターでお寿司食べたことないから、食べたいなー」
 勝手に話を進める玲奈に呆れつつ印鑑を箱に収めようとする雅夫の目に、とんでもない事実が飛びこんできた。
 某有名百円均一店のシールが貼ってある。
「おいぃ! 何だこれっ!」
「あ……ばれた。いいじゃん。気持ちに値段なんて関係ない、ない!」
「ばれたって言ったの聞こえてるっ! 大体お前は――」
 雅夫は言いかけた途端、扉を開けて様子をうかがっている兄の姿に気づいた。
〈好きな人がいるんだけど告白しずらい。自分の顔に劣等感持ってるみたいだから〉
 そう玲奈が言っていたと教えてくれた、兄の言葉を思い出す。
「あのさ、玲奈――」
 雅夫に突然話しかけられた玲奈が、動きをとめて聞き入る。
「ありがとう」
 雅夫はいつも恥ずかしくて言えない気持ちを、今日は正直に口に出していた。
「ふぐもいいなー。しゃぶしゃぶもどういうふうに食べるのか興味あるし」
 ところが、肝心の玲奈は話を聞いていない。
 窓に手を掛けた雅夫は閉めようとするが、玲奈が再び窓に手を掛けて閉めさせないよう抵抗してくる。
「うざっ! 開けるんじゃなかった! 冷やかしなら家に入れ!」
「もう半分入ってる! 雅夫のケチ! 恩知らず!」
 再び、窓の開け閉めを巡って、雅夫と玲奈の激しい攻防戦が続く。
「あー! もう!」
 女ってわかんねぇぇぇぇぇ!
 声にならない絶叫を、雅夫は胸の奥で上げるしかなかった。
 
 猪狩雅夫――高校三年生男。身長百九十二センチ、体重百二キロ。
 誰もが認める大巨漢。強面の男は見事、就職決定。
 桜が咲くのはいつの日か――恋も仕事もスタートラインに立ったばかりである。
 で、その後の仕事内容の話は、機会があればいずれ……語るとしよう。
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