エスパーなあなたと不器用なわたし
ここはどこ?
十二月九日、土曜日。
「うん・・・?」
シャッという、カーテンを開けるような音と、閉じているまぶたからでもわかるくらいの明るさに、まだ夢の中にいたいという欲求を無残にも絶たれたわたしは、しかたなく重い目を開けた。
朝?
そうだ。
夕べは忘年会で飲み過ぎちゃったんだ。
「目、覚めたか?」
えっ!!
部長??
ど、どうして部長がわたしの家に?
って、ここ、うちじゃないし!!
これが飛び起きるってやつかとわかるくらい、わたしは絵に描いたような起き方をした。
イタタタ・・・
頭がすごく痛い・・・
「おはよう」
「おはようございます。えっ? あ、あの、ここどこですか?」
「俺んちだけど」
「俺んちって、どうしてわたしがここに?」
「覚えてないのか? お前、タクシーで町名だけ言って爆睡したじゃないか。起こしても起きないから、仕方なく連れて来たんだよ」
そうか。
わたし、タクシーの中で寝ちゃったんだ・・・
何たる大失態。
しかも、鬼部長に迷惑をかけたなんて。
あーもう、終わった。
きっとわたし、クビになるんだ。
待って。
わたし、どうやってここまで運ばれて来たんだろう。
もしかして、お姫様抱っこ?
想像しただけで、体が熱くなった。
あ~消えてしまいたい・・・
「どうかした? 二日酔いか?」
「それもありますけど、部長、本当に申し訳ありませんでした」
深々と下げた頭を起こせない。
今わたし、どんな顔をしてるんだろう。
化粧が落ちて、もともとブスな顔が、より一層ブスになってるはず。
「水でも飲むか?」
「いえ、結構です」
「・・・顔、上げろよ」
「嫌です。ひどい顔してるから」
「今更隠したって遅いっつーの。朝起きてからずっと見てたし」
えっ?
ずっとって・・・
部長を見た。
部長と目が合う。
「何? 俺の顔に何か付いてる?」
はい。目と鼻と口が・・・なんて、バカな事を言いそうになって言葉を飲み込んだ。
「いえ」
「ははーん。会社では見せない素顔を見て惚れたんだろ?」
「はぁ? と、とんでもない! わたし別に部長の事、何とも思っていませんから」
「それはどうかな?」
「どういう意味ですか?」
「塚本、お前は俺に恋をする」
「どうしてそんな事言うんですか?」
「お前は俺に恋をする」
「ちょっと、暗示みたいな言い方、止めて下さい」
「お前は俺に恋をする。なぜなら、俺がお前の事、好きだからだ」
えっ?
今、何と?
部長がわたしの事を好き?
いやいや、何かの聞き違い。
そんな事あるわけないじゃない。
「お前、今俺が言った事、聞き間違いだと思ってないか?」
部長って、エスパーですか??
「その顔は図星だな? もう一度言う。俺はお前の事が好きだ」
やっぱり、聞き違いなんかじゃなかった・・・
「おいおい、何だよ、その落胆した表情は。俺、こう見えてもモテるんだぞ。社内の女の子から言い寄られた事は数知れない。そんな俺がこうして告白してるんだ。これってすごい事なんだぞ」
そうですか。
でも、きっと違う部署の人からですよね?
だって、コールセンターの女性は、全員あなたを恐れているんですから。
「だけどさ、何故か同じ部署の女の子にはモテないんだよな~」
やっぱり。
「なあ塚本、俺の事嫌いか?」
「えっ? いや、好きとか嫌いとか考えた事はありません」
「え~そうなのか?」
部長は落胆したように肩を落とし、それっきり話すのを止めた。
何だか、可哀想。
会社ではいつも自信満々な感じで仕事に励んでいる。
そんな人が、今は背中を丸めていじけてる。
こんな時、何て言ったらいいんだろう。
恋愛経験ゼロのわたしには、紡ぎだす言葉が見つからない。
さなちゃんにメールして、アドバイスを請おうか。
いやいや、そんな事したら、最初から全部話さなきゃいけなくなる。
夕べ酔っ払ってタクシーで爆睡しちゃって、朝起きたら部長の家でしたって事も。
「なあ、塚本」
「は、はい?」
「落ち込んでいる俺に何か声を掛けてくれないの?」
「えっ? あ、あの・・・」
無理だ・・・
何て言ったらいいのかわかんない。
どうしよう。
「そっか、俺の事、そんなに嫌いだったんだな」
「えっ?」
どうしよう。
何か言わないとマズイ気がする。
えっと、えっと・・・
「部長」
「うん?」
「えっと、あの、その、うちの部署の女子は、みんな部長の事を怖がっています。毎日のように雷を落とされるから」
「そりゃ、お客様への対応が悪ければ叱りたくなるさ。性格上、黙って見過ごす事は出来ん」
「わかってます。部長は正しいと思います。だけど、もう少し穏やかに指導して頂けないものでしょうか?」
「穏やかにって・・・」
「大声で怒鳴り散らされると、萎縮しちゃって言われた事が頭に入って来なくて、また同じ失敗をしちゃう人もいると思うんです」
「そうなのか?」
「幸いわたしはまだ怒られた事が無いので、部長の怖さを実感した事はありません。でも、経験者はみんな部長を恐れています」
「だったら、塚本は俺の事が怖いってわけじゃないんだな?」
「えっ?」
「だったら、少しは望みがあるんだな?」
「望みって?」
「お前が俺を好きになってくれるって事」
「・・・」
わたしが部長を好きになる?
そんな事があるのだろうか?
急に好きだと言われて動揺はしてるけど、今のところ部長の事が好きって感情はまったくない。
好きか嫌いか、どちらか一つを選べと言われれば好きかもしれないけど、嫌いではないから、好きを選らぶしかないと言うだけ。
「すみません。今は何ともお答え出来ません」
「ありがとう。可能性ゼロじゃないならいい。会社では、これまで同様宜しく頼むよ」
「あ、はい。宜しくお願いします。それから、今回は本当にありがとうございました。あの、帰る前に顔を洗わせてもらえますか?」
「もちろん。洗面所、その奥だから。ついでに、シャワーも浴びて行けば?」
「いえ、顔だけで結構です。それでは、お借りします」
洗面所の鏡はピカピカだった。
そう言えば、部屋も綺麗に片付いていたっけ。
部長は、公私ともに、きちんとした人なんだな。
バッグから、シートタイプのメイク落としを取り出し化粧を落とした。
と言っても、もうあまり残っていなかったけれど。
蛇口から出てくるぬるま湯で顔を洗うと、掛けてあったタオルを勝手に拝借した。
いい香り。
男のくせに、柔軟剤まで使ってるんだ。
女子力に欠けるわたし。
到底部長には太刀打ち出来ない。
「ありがとうございました」
「素顔もかわいいね」
「えっ?」
胸の奥がキュンとなった。
今まで男性から可愛いなんて言われた事はない。
自分ではブスだと思っているし、わたしには無縁だと思っていた言葉を、部長はさらりと投げ掛けた。
いや待てよ。
そう言えば夕べ、柴田くんからも可愛いって言われたような・・・
うん?
これってもしかして、モテキ?
いやいや、わたしに限ってそんな事は有り得ない。
「どうした? 何驚いたような顔をしてる?」
「わたし、可愛いなんて言われた事ないから」
「嘘だろ?」
「いえ、本当です」
「俺、お前の顔、めっちゃ好みだけどな」
「・・・」
わたしの顔が好み?
そんな事を言ってくれる男性がいたなんて。
何か、泣きたくなっちゃう。
あれっ? わたし今、泣いてる?
「塚本?」
何でだろう。
何で涙が出ちゃうんだろう?
えっ?
部長?
部長から抱きしめられている。
わたしの顔は丁度部長の胸元。
わたしを、優しく包み込んでくれている。
あったかい。
それに、すごく気持ちいい。
男の人から抱きしめられるなんてシチュエーションも初めてなのに、何故かすごく穏やかな気持ちになれる。
ゆうべ、柴田くんの胸におでこが当たった時のような警戒音も出て来ない。
部長は何も言わず、長い間わたしを抱きしめていた。
ずっとこのままでいたい。
そんな思いも湧き出して来る。
でも、彼氏でもない人と、こんな事しちゃいけない。
「離してください」
「ごめん」
部長は、ゆっくりとわたしを離した。
そっと部長を見上げる。
こんなに近くで男の人を見た事ってあっただろうか?
「すみません。自分でもよくわからないんですけど、勝手に涙が溢れちゃいました」
「俺も、そんなお前を抱きしめたくなった」
「部長・・・」
部長の手が、わたしの両腕に回される。
そして、見上げたその顔が、段々と近づいて来た。
これって、もしかして・・・
呼吸が荒くなる。
酸素欠乏状態。
無理無理無理!
わたしは部長から逃げた。
「すみません。わたし帰ります」
床に置いたバッグを掴むと、わたしは玄関に向かった。
「待って。家まで送る」
「大丈夫です。ちゃんと一人で帰れますから」
「送らせてくれ。上司として」
「・・・」
結局わたしは、部長が運転する車の助手席に座っていた。
部長は、真っ直ぐ前を見て、何も言わない。
さっき、キスを拒んだから?
部長はわたしに好意を持ってくれているかもしれないけど、わたしは好きではない。
好きでもない人と、キスなんて出来ないよ。
さなちゃんに話したら、きっと智は真面目過ぎるんだよって言われるね。
だけど、これがわたし。
こういう性格なんだから仕方ないじゃない。
そして最後は、智らしいけどねって言ってくれる。
ああ。
今すぐさなちゃんに会いたい。
部長から告白された時、わたしもですって言ってたらどうなってたんだろう。
部長と付き合う事になって、恥ずかしいから会社の人には内緒にしてて、週末はいつもデート。
そのうち部長の家にお泊りする日もあって、そこで・・・
あーダメダメ。
わたしは、結婚する人とじゃないと寝ない。
そう決めてるの。
そんな古風な奴、もうどこにもいないって笑われるかもしれないけど、わたしが思い描く男性との付き合い方は、昔からこうなの。
そこは、譲れない。
それで嫌われちゃったとしても縁が無かったんだと諦める。
だから部長も、さっきキスを拒んだ事で、わたしの事嫌いになったよね?
しょせん、二十一歳のわたしが、部長なんかとお付き合い出来るはずがない。
好きだと言われて悪い気はしなかった。
正直嬉しかったけど、でもこれは恋じゃない。
「あっ、そこで止めてください」
部長の車は静かに停車した。
「うん・・・?」
シャッという、カーテンを開けるような音と、閉じているまぶたからでもわかるくらいの明るさに、まだ夢の中にいたいという欲求を無残にも絶たれたわたしは、しかたなく重い目を開けた。
朝?
そうだ。
夕べは忘年会で飲み過ぎちゃったんだ。
「目、覚めたか?」
えっ!!
部長??
ど、どうして部長がわたしの家に?
って、ここ、うちじゃないし!!
これが飛び起きるってやつかとわかるくらい、わたしは絵に描いたような起き方をした。
イタタタ・・・
頭がすごく痛い・・・
「おはよう」
「おはようございます。えっ? あ、あの、ここどこですか?」
「俺んちだけど」
「俺んちって、どうしてわたしがここに?」
「覚えてないのか? お前、タクシーで町名だけ言って爆睡したじゃないか。起こしても起きないから、仕方なく連れて来たんだよ」
そうか。
わたし、タクシーの中で寝ちゃったんだ・・・
何たる大失態。
しかも、鬼部長に迷惑をかけたなんて。
あーもう、終わった。
きっとわたし、クビになるんだ。
待って。
わたし、どうやってここまで運ばれて来たんだろう。
もしかして、お姫様抱っこ?
想像しただけで、体が熱くなった。
あ~消えてしまいたい・・・
「どうかした? 二日酔いか?」
「それもありますけど、部長、本当に申し訳ありませんでした」
深々と下げた頭を起こせない。
今わたし、どんな顔をしてるんだろう。
化粧が落ちて、もともとブスな顔が、より一層ブスになってるはず。
「水でも飲むか?」
「いえ、結構です」
「・・・顔、上げろよ」
「嫌です。ひどい顔してるから」
「今更隠したって遅いっつーの。朝起きてからずっと見てたし」
えっ?
ずっとって・・・
部長を見た。
部長と目が合う。
「何? 俺の顔に何か付いてる?」
はい。目と鼻と口が・・・なんて、バカな事を言いそうになって言葉を飲み込んだ。
「いえ」
「ははーん。会社では見せない素顔を見て惚れたんだろ?」
「はぁ? と、とんでもない! わたし別に部長の事、何とも思っていませんから」
「それはどうかな?」
「どういう意味ですか?」
「塚本、お前は俺に恋をする」
「どうしてそんな事言うんですか?」
「お前は俺に恋をする」
「ちょっと、暗示みたいな言い方、止めて下さい」
「お前は俺に恋をする。なぜなら、俺がお前の事、好きだからだ」
えっ?
今、何と?
部長がわたしの事を好き?
いやいや、何かの聞き違い。
そんな事あるわけないじゃない。
「お前、今俺が言った事、聞き間違いだと思ってないか?」
部長って、エスパーですか??
「その顔は図星だな? もう一度言う。俺はお前の事が好きだ」
やっぱり、聞き違いなんかじゃなかった・・・
「おいおい、何だよ、その落胆した表情は。俺、こう見えてもモテるんだぞ。社内の女の子から言い寄られた事は数知れない。そんな俺がこうして告白してるんだ。これってすごい事なんだぞ」
そうですか。
でも、きっと違う部署の人からですよね?
だって、コールセンターの女性は、全員あなたを恐れているんですから。
「だけどさ、何故か同じ部署の女の子にはモテないんだよな~」
やっぱり。
「なあ塚本、俺の事嫌いか?」
「えっ? いや、好きとか嫌いとか考えた事はありません」
「え~そうなのか?」
部長は落胆したように肩を落とし、それっきり話すのを止めた。
何だか、可哀想。
会社ではいつも自信満々な感じで仕事に励んでいる。
そんな人が、今は背中を丸めていじけてる。
こんな時、何て言ったらいいんだろう。
恋愛経験ゼロのわたしには、紡ぎだす言葉が見つからない。
さなちゃんにメールして、アドバイスを請おうか。
いやいや、そんな事したら、最初から全部話さなきゃいけなくなる。
夕べ酔っ払ってタクシーで爆睡しちゃって、朝起きたら部長の家でしたって事も。
「なあ、塚本」
「は、はい?」
「落ち込んでいる俺に何か声を掛けてくれないの?」
「えっ? あ、あの・・・」
無理だ・・・
何て言ったらいいのかわかんない。
どうしよう。
「そっか、俺の事、そんなに嫌いだったんだな」
「えっ?」
どうしよう。
何か言わないとマズイ気がする。
えっと、えっと・・・
「部長」
「うん?」
「えっと、あの、その、うちの部署の女子は、みんな部長の事を怖がっています。毎日のように雷を落とされるから」
「そりゃ、お客様への対応が悪ければ叱りたくなるさ。性格上、黙って見過ごす事は出来ん」
「わかってます。部長は正しいと思います。だけど、もう少し穏やかに指導して頂けないものでしょうか?」
「穏やかにって・・・」
「大声で怒鳴り散らされると、萎縮しちゃって言われた事が頭に入って来なくて、また同じ失敗をしちゃう人もいると思うんです」
「そうなのか?」
「幸いわたしはまだ怒られた事が無いので、部長の怖さを実感した事はありません。でも、経験者はみんな部長を恐れています」
「だったら、塚本は俺の事が怖いってわけじゃないんだな?」
「えっ?」
「だったら、少しは望みがあるんだな?」
「望みって?」
「お前が俺を好きになってくれるって事」
「・・・」
わたしが部長を好きになる?
そんな事があるのだろうか?
急に好きだと言われて動揺はしてるけど、今のところ部長の事が好きって感情はまったくない。
好きか嫌いか、どちらか一つを選べと言われれば好きかもしれないけど、嫌いではないから、好きを選らぶしかないと言うだけ。
「すみません。今は何ともお答え出来ません」
「ありがとう。可能性ゼロじゃないならいい。会社では、これまで同様宜しく頼むよ」
「あ、はい。宜しくお願いします。それから、今回は本当にありがとうございました。あの、帰る前に顔を洗わせてもらえますか?」
「もちろん。洗面所、その奥だから。ついでに、シャワーも浴びて行けば?」
「いえ、顔だけで結構です。それでは、お借りします」
洗面所の鏡はピカピカだった。
そう言えば、部屋も綺麗に片付いていたっけ。
部長は、公私ともに、きちんとした人なんだな。
バッグから、シートタイプのメイク落としを取り出し化粧を落とした。
と言っても、もうあまり残っていなかったけれど。
蛇口から出てくるぬるま湯で顔を洗うと、掛けてあったタオルを勝手に拝借した。
いい香り。
男のくせに、柔軟剤まで使ってるんだ。
女子力に欠けるわたし。
到底部長には太刀打ち出来ない。
「ありがとうございました」
「素顔もかわいいね」
「えっ?」
胸の奥がキュンとなった。
今まで男性から可愛いなんて言われた事はない。
自分ではブスだと思っているし、わたしには無縁だと思っていた言葉を、部長はさらりと投げ掛けた。
いや待てよ。
そう言えば夕べ、柴田くんからも可愛いって言われたような・・・
うん?
これってもしかして、モテキ?
いやいや、わたしに限ってそんな事は有り得ない。
「どうした? 何驚いたような顔をしてる?」
「わたし、可愛いなんて言われた事ないから」
「嘘だろ?」
「いえ、本当です」
「俺、お前の顔、めっちゃ好みだけどな」
「・・・」
わたしの顔が好み?
そんな事を言ってくれる男性がいたなんて。
何か、泣きたくなっちゃう。
あれっ? わたし今、泣いてる?
「塚本?」
何でだろう。
何で涙が出ちゃうんだろう?
えっ?
部長?
部長から抱きしめられている。
わたしの顔は丁度部長の胸元。
わたしを、優しく包み込んでくれている。
あったかい。
それに、すごく気持ちいい。
男の人から抱きしめられるなんてシチュエーションも初めてなのに、何故かすごく穏やかな気持ちになれる。
ゆうべ、柴田くんの胸におでこが当たった時のような警戒音も出て来ない。
部長は何も言わず、長い間わたしを抱きしめていた。
ずっとこのままでいたい。
そんな思いも湧き出して来る。
でも、彼氏でもない人と、こんな事しちゃいけない。
「離してください」
「ごめん」
部長は、ゆっくりとわたしを離した。
そっと部長を見上げる。
こんなに近くで男の人を見た事ってあっただろうか?
「すみません。自分でもよくわからないんですけど、勝手に涙が溢れちゃいました」
「俺も、そんなお前を抱きしめたくなった」
「部長・・・」
部長の手が、わたしの両腕に回される。
そして、見上げたその顔が、段々と近づいて来た。
これって、もしかして・・・
呼吸が荒くなる。
酸素欠乏状態。
無理無理無理!
わたしは部長から逃げた。
「すみません。わたし帰ります」
床に置いたバッグを掴むと、わたしは玄関に向かった。
「待って。家まで送る」
「大丈夫です。ちゃんと一人で帰れますから」
「送らせてくれ。上司として」
「・・・」
結局わたしは、部長が運転する車の助手席に座っていた。
部長は、真っ直ぐ前を見て、何も言わない。
さっき、キスを拒んだから?
部長はわたしに好意を持ってくれているかもしれないけど、わたしは好きではない。
好きでもない人と、キスなんて出来ないよ。
さなちゃんに話したら、きっと智は真面目過ぎるんだよって言われるね。
だけど、これがわたし。
こういう性格なんだから仕方ないじゃない。
そして最後は、智らしいけどねって言ってくれる。
ああ。
今すぐさなちゃんに会いたい。
部長から告白された時、わたしもですって言ってたらどうなってたんだろう。
部長と付き合う事になって、恥ずかしいから会社の人には内緒にしてて、週末はいつもデート。
そのうち部長の家にお泊りする日もあって、そこで・・・
あーダメダメ。
わたしは、結婚する人とじゃないと寝ない。
そう決めてるの。
そんな古風な奴、もうどこにもいないって笑われるかもしれないけど、わたしが思い描く男性との付き合い方は、昔からこうなの。
そこは、譲れない。
それで嫌われちゃったとしても縁が無かったんだと諦める。
だから部長も、さっきキスを拒んだ事で、わたしの事嫌いになったよね?
しょせん、二十一歳のわたしが、部長なんかとお付き合い出来るはずがない。
好きだと言われて悪い気はしなかった。
正直嬉しかったけど、でもこれは恋じゃない。
「あっ、そこで止めてください」
部長の車は静かに停車した。