契約結婚の終わらせかた
「碧!」
今まで名前を呼ばれてこれだけ嬉しかったことがあっただろうか。
伊織さんが処置室の前に駆けつけてくれた時――私の中ではっきり形づくられたものがある。
伊織さんは仕事中で急いで車を飛ばし、ここまで走ってくれたんだろう。いつもきっちりした髪は乱れ、真冬というのに汗だくで。こんな時なのに胸がギュッと締め付けられた。
「静子さんは?」
「今、治療中だけど……場合によっては手術になるかもしれないって」
「そうか……」
伊織さんは私の肩を抱くと、そっと長椅子に座らせる。私の隣でそっと髪をすいてくれた。
「大丈夫だ。あの静子さんがおまえを置いて逝くはずがない。俺が不甲斐ないばかりで……きっと地獄の底からでも蘇って叱りつけにくるさ」
「おばあちゃんは地獄前提ですか……」
「ああ、あのたくましさだ。閻魔王だろうがやり込めて帰ってくるさ」
伊織さんの軽口に、泣きながら笑ってしまった。
「……おまえは、そうやって笑っておけ。泣くな……俺も自分なりに決着をつける。だから」
伊織さんは口をつぐんでそれ以上は言わなかったけど。なんとなく、うなずいておく。
そして……
お医者様が処置室のドアを開いた。
「……意識が戻りました。命に別状はありません」
その言葉を聞いた瞬間、安堵のあまりに伊織さんの胸で咽び泣いた。