契約結婚の終わらせかた
ここには年明けに引越してきたらしいけど、冷蔵庫の中どころかキッチンすら見事に何もなかった。
調理に使う包丁やまな板はもちろん、ボウルやザルやおたまに菜箸。鍋やフライパンややかん。砂糖や醤油や塩なんかの調味料。炊飯器まで存在してなかった徹底ぶりだ。
唯一あったのは申し訳程度のカトラリーと電子レンジ、電子ケトルにマグカップとグラス。お皿が数枚のみ。
(一体どんな生活をしたらこれだけ物が少なくなるんだろう)
そんな疑問は、翌朝やって来たハウスキーパーの鈴木さんが解決してくれた。
鈴木さんは45歳になる既婚男性で、10年前から伊織さん専属のハウスキーパーをしてる。それだけ長い間仕事をしていると、少しは伊織さんのことを知る機会はあるみたいで。少しだけ教えてくれた。
「伊織さんは、普通の食事は一切取られませんね」
だからいつもこれの買い置きを頼まれるんです、と鈴木さんが苦笑いしながら手にしたものは、ドラッグストアのビニール袋。半透明の袋から見えるのは、見たことがあるゼリー飲料のパッケージだった。
「私も理由までは知りませんが、食事は一切用意しなくてもよいと。最初は用意したものですが、弱ってもお粥すら口にしないんですよ。ありゃ筋金入りですね」