彼に惚れてはいけません
時間ぴったりに約束の店に到着すると、奥のソファ席から手を挙げる吉野さんが見えた。
グレーのスーツに白いシャツ、ネクタイの色は紫だ。
今日も素敵。
「お待たせしました~。すいません」
と急ぎ足で座ると、人差し指を立てた吉野さんがその指を左右に揺らす。
「ダメダメ!時間ちょうどに来なくていいから。俺に会いたいって気持ちが全身に表れてしまってる。もっと余裕を持って、5分くらい遅れてこい。で、仕方がないから来ましたオーラ出してみろよ」
会えば会うほどに、こんな人に出会ったことがないと実感してしまう人だ。
少なくとも私の人生の中で、こんな理屈っぽい、おかしな人はいなかった。
「だって、自分の気持ちに正直になれって言ったのは吉野さんですよ」
「そんなこと俺、言ったっけ?」
そうすっとぼけた吉野さんは、目頭を押さえながらメニューを広げ、店員さんを呼ぶ。
この店は、会社から5分ほどの場所にあり、地下に少し入った静かで薄暗い喫茶店だった。
カフェというよりも喫茶店。
昭和の匂いのする店で、おじさんたちに大人気の店。