御曹司さまの言いなりなんてっ!

 私の笑い声が、そこでピタッと止まってしまった。

 明るく笑う私を見つめる部長の表情が、何とも言えない微妙なことになっている。

 ……ほら、あれだわ。あれ。

 ちょっと前に清涼飲料水のテレビCMで見た、チベットスナギツネ。

 あれソックリ。


「俺だ」

「はい?」

「それは俺だ」

「それ? ……チベットスナギツネ?」

「なんで俺がチベットスナギツネなんだよ。その、偶然通りかかったヒドイ男ってのが、俺だ」

「…………」


 沈黙が室内を支配した。

 缶ジュースを手に持ったまま、私の表情もチベットスナギツネに変化する。

 なに言ってんの? 部長が、あの時の男の子ですって?

 そんなふざけた偶然があるわけないでしょ? 冗談も休み休み言って欲しいんですけど。


「そのチベット顔は、信じてないだろ?」

「今の部長に、チベット顔って言われたくありません」

「チベットはどうでもいいんだよこの際。それよりお前、本当に完全に俺のこと忘れてたんだな?」

「だから、冗談も休み休み……」

「ペットボトルの林檎ジュース」

「……はい?」

「ペットボトルの林檎ジュースの、口移し」

「…………」


 再び、沈黙が室内を支配する。

 部長の言葉をきっかけに、カチッとスイッチの入る音が私の頭に響いた。

 ああ、脳裏に甦る、私とあの男の子しか知らない鮮烈な秘密。

 暑い夏の日。男の子の生々しい唇の感触。林檎ジュースの甘く爽やかな味が……。

 味……が……。

 …………。


「…………!?」


 衝撃の事実に呼吸が止まりそうなほど驚愕した私の顔が、これ以上は不可能なほど盛大に歪んだ。

 必死になって空気を吸い込み、背中が仰け反るほど腹に息を溜めこむ。

 そして一気に、部長に向かって絶叫した。


「あの時の、ファーストキス泥棒ーー!!」

「誰が泥棒だ! お前、自分の命の恩人との再会にどこまで無礼な態度なんだよ!」 
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