思いは記念日にのせて

 ふいに尋ねられて、持ってないのはわかっているのに無意識に自分の手を見てしまう。

「え、ううん」
「じゃ入ってけば? あ、同じマンションなんすよー」
「知ってます」
「あ、そうなんすか。ならいいけど。それとも彼氏さんに送ってもらう?」

 ニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべる悠真を見て貴文さんの表情が曇った。

「え、いいよ」
「あ、そう」

 店内に悠真が入っていくのを見送る。
 なんとなく貴文さんと目をあわせたくなかったから。
 
「入っていく?」
「いえ、大丈夫です」
「そっか……詳しいことがわかったらまた連絡するから」

 ごめんなと小さな声で聞こえたような気がした。
 去って行く貴文さんの肩にいろいろなものが重くのしかかっているようにしか見えなかったんだ。



「あれ、一緒に帰らなかったの?」

 さっきから答えに迷うようなことばかり聞いてくるなあ。
 悠真が戻ってくる前に出ちゃえばよかったんだろうけど、この雨じゃ無理だ。
 
「じゃ入ってけばいいよ」
「ありがたく」
「彼とうまくいってないんだ」

 大きなお世話!
 そう思ったけど、ある程度状況を知っている悠真にはそうも言えなかった。
 悠真の紺色の傘に大粒の雨が降り注ぐ。
 大通りを走り抜ける車の明かりも少し白く煙って見えた。

「……はる」
「――え?」

 雨の音で聞き取れない。
 足を止めて悠真を見ると真正面を向いたまま。

「悠真?」
「なんでもない。行こう」

 背中を押されて歩き出すけど、悠真が何を言いたかったのか気になった。
 ちゃんと聞き取れなかったわたしの名前。

 この時はっきり思い出した。
 幼い頃、わたしのことを『はるちゃん』と呼んでいたのは悠真だったことを。

 強い鼓動がずくんと胸を刺激する。
 傘の端から落ちていく雨粒が悠真の肩を濡らしていた。
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