ウソ夫婦
目が離せない。ダッシュボードの中央に置かれた、真っ黒な拳銃。
ドンッ。
身体の中心を振動が走る。
翠は胸を押さえた。熱いものが流れ出る感覚に襲われた。
ドンッ。ドンッ。ドンッ。
引き金を引くたびに跳ね上がる銃身。
部屋中に瞬く間に広がる、血の濃い匂い。
銃身の先から、空中を引きずられるように流れる、白い煙。
「翠、息を吸え」
颯太の声が遠くから聞こえた。言われるがままに息を吸ったが、自分の血で溺れて呼吸ができない。酸素を求めて喘いだ。
逃げなくちゃ。早く、逃げなくちゃ。
翠の左手が必死にドアを探る。
「落ち着くんだ。大丈夫、ここは安全だ」
颯太がドアを開けようとする翠の腕を引きとめようとした。
翠の声にならない悲鳴が、車内に響き渡った。
翠は扉を開けると、外に転がり出た。地面に膝を打ち付けて、それでも必死に立ち上がる。
「翠、待て! 走るなっ!」
颯太の声はもう、翠の耳には届かなかった。
太陽に焼かれたコンクリートの上を、よろめきながら走り出す。
車が行き交う道路に飛び出して、大きなクラクションが鳴らされる。それでも翠は走り続けた。
ここから逃げなくちゃ。
早く、早く!
まだ死ねないの。
だって私、あの人に返事をしてないんだもの。