ウソ夫婦
「あ、先生、おはようございます」
のぞみの明るい声で、はっと我に返った。カウンターを見ると、隣の小学校の教諭、森 茂が笑顔で立っていた。
「おはようございます」
森は丁寧に頭をさげると、手に持っていた画集をカウンターの上によいしょっと置いた。
「役立ちました?」
のぞみが尋ねる。
「もちろんです」
森はさわやかに答えた。
森は、美術教師だ。よく図書館に画集や図鑑を借りに来る。身長は中程度。素朴な感じの風貌で、いつもきまって白いワイシャツとスラックスを履いている。美術教師にありがちな、少々奇抜なところはひとつもなかった。
森は返却手続きをしながら、ちらっと翠に目をやる。それから少し照れたような表情を見せた。
「またっ、山崎さんのこと見てるし。まったく妬いちゃうなあ」
のぞみは、機嫌を損ねたというように、腕を組む。
「な、何言ってるんですか。誤解ですって」
森は慌てて、顔を真っ赤にした。
それからあたふたと、図書館を後にする。その後ろ姿を見送っていると、引き出しの中で携帯のなる音がした。
「まったく、山崎さんは既婚者だっつーの。私は過去現在未来、すべてにおいてフリーなのになあ」
のぞみは、話しながらだんだんと怒りが増してきたようで、森の返してきた画集をドタンバタンと大きな音を立てて片付ける。まんまるな顔に、まんまるほっぺで、ぷりぷりと怒っている。
また、引き出しから「ブーッ」と携帯のなる音。
「山崎さん、携帯なってますよー」
画集を抱えて歩くのぞみが、翠に話しかけた。
知ってる。でも見たくないの。
翠は曖昧に笑い返した。
それからまた、携帯の音。
「ああ、ちきしょ」
翠は引き出しのカバンから、携帯を取り出した。
『あの教師は、怪しい』
『近づくな』
『返事は?』
翠は頭をかきむしりたい衝動にかられる。それからやっとのことで『はいはい』と返事を打った。
『返事をは一度で』
すぐに返信がくる。
お前は暇人か?
翠は再び携帯を引き出しに放り込んだ。