ウソ夫婦

「自分の立場わかってんのか?」
颯太が低い声で言った。

翠は何も言えない。黙ってテーブルの上に並べられたフォークを見る。

「日本へ帰ってきても、何があるかわからないんだ」
「……でも」
「でもも、くそも、ない。死ななかったのが、奇跡に近い」
「でもっ」

翠はそこで顔を上げる。

「ぴんと来ないんだもの。どうして私があんな目にあったのか、全部覚えてないんだからっ」

半年前、気づいたら、病室にいた。白い天井。消毒薬の香り。個室の外には、警官が二人立っていて、自由に外に出られなくなっていた。胸の真ん中には、信じられないほどの傷ができていて、最初のうちは呼吸するだけで鋭い痛みが走った。

「お前が唯一の生存者。あの研究室で行われていたことを知るのは、今はお前だけ」

病室で、見知らぬ捜査官に、何があったのか尋ねられたが、翠には一つも記憶がなかった。どうやら研究員として、日本の製薬会社がアメリカの企業と提携するラボで働いていたようだが、実際、その記憶もなかった。翠の記憶は、アメリカの大学を卒業したところあたりまでで、止まっている。

もともと、大学では薬学を専攻していたので、研究員として働いていたというのは、納得できる。
納得できないのは、そのラボで大量殺戮が行われ、翠が唯一の生存者だということ。

それから、目の前にいる、この夫役の捜査官……本当に納得できない。

「お待たせいたしました」
フルーツのたっぷり乗ったパンケーキが、翠の目の前に置かれた。甘い甘い、はちみつの香り。

「……食べないの?」
不機嫌そうな颯太の顔を伺いながら、翠はフォークを手に取った。

「そんな甘いもん、いらない」
颯太は運ばれてきたアイスコーヒーを、ブラックで一口の飲む。

そこでふと、どうしてこのカフェに入ったのか気になった。

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