ウソ夫婦

颯太が扉にゆっくりと腕をついて、翠の逃げ道を断つ。翠の目の前に、濡れた颯太の二の腕。ボディーソープの甘い香りに圧倒された。

颯太の唇が、翠の耳に近づく。翠は固まって動けない。

「欲求不満?」
「は?」
翠は目を丸くして、颯太の顔を見た。

瞳が誘うように翠を覗き込む。
「抱いてほしい?」

「ちっ、ちっ、ちがいますっ」
翠の声が裏返った。

「なんなら、ベッドに行ってもいいけど」

翠の顔に血がのぼる。颯太の裸の腕の下をくぐって、廊下に飛び出ようとしたが、すんでのところで腕を掴まれた。

「やだっ」
翠は必死に腕を振りほどこうとしたが、あっというまに引き戻される。壁を背に、翠は颯太の顔を泣きそうになりながら見た。

「ん」
颯太が翠の前に、手を出す。

「ん?」
てっきり襲われると思っていた翠は、拍子抜けして首をかしげた。

「返して」
「何を?」
「俺のスマホ」

翠は自分の手を見て、それから「あっ」と声を上げた。

握りしめていたスマホを、投げるように颯太に返す。颯太は翠を鼻で笑うと、掴んでいた腕を解放した。

「行動がわかりやすいから、付け入られる」
颯太が言う。

「犯人が捕まるまで、この生活からは逃げられないんだ。逃げたいなら、何があったか早く思い出せよ」

翠は悔しくて、唇を噛み締めた。

また、バカにされた。手のひらで踊らされて、腹立たしいことこのうえない。

「それから、こんな覗きみたいなことしなくても、寝たいなら抱いてやるから、そう言えよな」
颯太は笑いながら腕を組んだ。

ち、ち、ちきしょー。

「あなたとは、絶対に寝ません!」
翠は颯太に背を向けて、廊下に走り出る。自分の部屋へと駆け込んだ。

真っ暗な部屋の中、鍵をかけて、大きく息を吸う。

「どんなにいい男でも、あんな奴は願い下げ! だいたい、アンダーを丸剃りするなんて、変態でしょ!?」
翠は、暗闇に向かって、力の限り、無音で叫んだのだった。

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