ウソ夫婦

そして翌朝。
懲りない女が一人。

昨日の一件で、ここを逃げ出したい気持ちが倍増した。これまで、颯太を異性として警戒したことがなかった。捜査官だからと、安心しきっていたのだ。

脱衣所に充満する、ボディーソープの香りが鼻をかすめた気がして、翠は慌てて鼻をこする。
濡れた髪をかきあげたときに見せた瞳。腕から脇、引き締まった腹部に落ちる水滴。耳元にかかる、熱い息。

「わーっ」
翠は頭を抱えて、首を激しく振った。

「ダメ、思い出しちゃ。毒、毒!」
性格がどす黒い男に、あんな顔と肉体を与えちゃいけない。惑わされる、いたいけな女達がどれだけいることか。

「私は、絶対に騙されない」
翠はそう言うと、うんとうなづく。

とにかく、颯太の気を自分から逸らす。指輪はこの際、どこかに捨てたらいい。逃げ切ればいいだけだ。

元陸上部、ファイト!

気合を入れて、リビングに入っていく。いつもの場所に、いつものあいつ。脳に焼きついた昨日の映像を、必死に振り払いながら「おはようございます」と挨拶し、キッチンへ向かう。

新聞から、ちらりと目をあげる。「おはよう」
それからすぐに新聞に目を戻す。クーラーの冷えた風が、颯太の前髪をかすかに揺らしている。

今日は、第二木曜日で、図書館の休館日。下手したら一日中、この不愉快な顔を見ていなくてはいけないのだ。ほんと、とんでもない。

そこで颯太が新聞を座卓に放り投げた。
「どこ行きたい?」
そう尋ねた。

「え?」
蛇口から水を流しながら、翠は驚いて振り向いた。颯太は腕を組んで翠を見ている。

「だから、どこ行きたい?」
颯太は再び尋ねた。

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