ウソ夫婦
颯太の座るベンチから見える、屋内の売店へと入る。冷房の冷たい風が、ひやりと肌を刺戟した。太陽の光から逃れたばかりで、目が効かない。その中で、ひときわライトがついて目立つ雑貨屋があった。翠はその店で、たくさんある帽子の中から、ヒーローキャラクターのついたキャップを手に取る。
「これ被ったら、笑えるな」
そう小さく言う。それからふと、自分の薬指にはまる指輪に目をやった。
いまなら、逃げられる。
そんな考えが、頭をよぎった。指輪をここに投げ捨てて、反対側の入り口から走り出れば、颯太から逃げられる。翠は思わず指輪をゆるめた。
だけど……。
ぐったりとした颯太の姿が脳裏に浮かんだ。いつもは偉そうな顔に、気弱な影が見えた。
翠は首を振る。
この状況で逃げたら、人として失格だわ。
翠は再び指輪を根元まで押し込んだ。気をとりなおして、ヒーローキャップを手にとった瞬簡、背後から声をかけられた。
「山崎さん」
振り向いて、翠は思わず息を飲んだ。
「森先生……どうして……」
森は、人の良さそうな顔を真っ赤にして、汗だくの笑顔を向けた。なぜか空の車椅子を押している。
「この間はご主人が入って、最後までお話しできなかったので、もう一度チャンスが欲しくて後をつけてきました」
翠の背筋に嫌な予感が走る。引きつった笑顔で一歩下がった。
「まずは僕のアトリエを見てみてください。最初は抵抗があるかもしれませんけれど、僕のイメージデッサンをみたら、気が変わるとおもいます。あの絵のモデルは、あなたしかいない」
「け、結構です」
翠は勢いよく首を振った。
森の顔にかすかな苛立ちが見えた。
あ、まずい。
翠はそう思った瞬間、森の手が伸びて、翠の二の腕に痛みが走った。
な、なに、コレ。
翠の膝に突然力が入らなくなる。抵抗できない重力を感じて、翠は前のめりに倒れこむ。
そして意識を失った。