朔旦冬至 さくたんとうじ ~恋愛日和~
「あ,おはようございます。」
朔は今日も
由宇を保育園へ預け,
勤務校へ。
職員室横にある
保健室に顔を出す。
「あ,朔ちゃん。
おはよう。」
中村先生は,
さっききたのか,
窓を開けながら
にこやかに話しかける。
「昨日はお疲れ様。」
中村先生は
コーヒーを淹れて
テーブルに着く。
香ばしい香りに
朔は今日も癒される。
朔は,1限目の
授業は入っていないので
のんびりした気分でいた。
「お疲れ様です。
いただきます。」
朔はそういって
コーヒーをすすった。
「なんか,朔ちゃん
微妙な顔・・・
してたなと思って。」
「ええ・・・
そうですねえ・・・。」
そういいながら
朔が渋い表情をしたからか・・・
中村先生はクスクスと
笑った。
「なんか,対照的よね・・。」
「対照的?」
「ええ。
恋愛もしていないのに
子育てに奮闘している
朔ちゃんと・・・
子育てなんて
夢にも思わずに
奔放に恋愛している
女子高生と・・・。」
「・・・はは・・・
そうですね・・。」
朔は苦笑しながら
そう答えた。
「朔ちゃんは
どう感じたの?」
中村先生は,
朔の方を見ながら
少しからかいながらも
少し心配そうな顔をして
朔に問うた。
「・・・あ・・いや,
自分がどうこうってことは
感じませんでしたけど・・。」
「けど?」
「いや,由宇や
由宇の両親のことを思うと・・・
複雑でしたよ。
望まれて,祝福されて
生まれてきた命のはずなのに・・・
そして,由宇の妹は,
望まれて,祝福される
はずだったのに
生まれてくることすら
できなかった・・・
由宇の両親は,
かわいい1歳の子を置いて
逝かなくてはいけなかったなんて
さぞ心残りだったろう・・・と。
そうかといえば,
望まれず・・・
まあ,事情はいろいろ
あるかもしれないけど・・・
人の手によって
奪い去られる命もあるわけで・・・
そう思うと複雑だなって
思っただけです。」
「なるほど・・ね。」
中村先生は大きく頷きながら
考え込んでいた。
「おもしろいわね。」
朔は中村先生の
唐突なその言葉に
少し怪訝な顔を
してしまった。
「あ・・・いや,
ごめんなさい,
不謹慎かもしれないけど・・・
朔ちゃん・・・
完全に親の目線なんだなって。」
「え・・・?
そうですか・・・?」
朔はきょとんとした顔で
そう答えた。
だけど・・・朔は
そう言われたら
そうかもな・・・
と思っていた。
そんなことは,
全然意識していなかった
けれど・・・。
「朔ちゃんはきっと
由宇ちゃんにとっては
いいお兄さんであり,
お父さんであるんじゃないかな?
あ・・お母さん・・・
かもしれないけど。」
そういってまた
中村先生はクスッと笑った。
「どうなん・・ですかね?
俺は何の覚悟もなく
『父親もどき』になったから。
そう思ったら
兄貴のこと,うらやましいって
感じる時もありますよ。
だって,
義姉さんとちゃんと
恋愛をして,
家族になって
愛する人の子どもを
授かって・・・
その後は・・・
つらい運命だったけど・・・。」
中村先生は
また頷きながら笑う。
「朔ちゃんだって
これから,そういうこと
経験するんじゃないの?」
「え・・俺・・が?」
「うん。
そうよ。
普通の25歳は,
そういうことを
夢見たり・・・
今ちょうどその
真っ最中だったり
するんじゃないの?」
「・・・あ・・・
そう・・・ですかね?
俺の中に
そんな意識なかったな。」
そういうと
中村先生はまた,
椅子に座って
朔の方を真剣な
まなざしで見た。
「朔ちゃんってさあ,
由宇ちゃんのことが
ある前って
どんな恋愛をしてたの?」
「え・・?
恋愛・・・ですか・・・?」
朔は心の中で,
「それは・・・
苦手分野だから・・・。
・・・聞かないで・・・。」
とつぶやいていた。
朔の気持ちをよそに
中村先生はまくしたてる。
「だって,
由宇ちゃんを引き取ったのは
21歳なんでしょ?
そのころ,彼女とか
いなかったわけ?
恋愛の1つや2つは
してるでしょう?」
朔はいつもに増して
迫力のある中村先生の
圧力に圧倒されて
たじろいでしまった。
張りつめる空気に耐え切れず
へらへらと苦笑いしていた
朔に・・・
中村先生の厳しい視線が
突き刺さる。
そのとき・・・
ちょうど
1限終了のチャイムが鳴った。
「あ,俺
2限,2年の体育だわ。
着替えに行ってきま~す!」
「あ!ずるい!
朔ちゃん!
この続きはまた
絶対するからねえ!!」
「はいは~い!」
そう言って朔は
保健室を出た。
朔はこう思っていた。
・・・助かった・・
サンキュ・・・チャイム。
朔はその日も
由宇を迎えに行って
家路についていた。
朔は頭の中で
帰ってからのスケジュールを
組み立てていた。
今日は特に学校での
仕事は残っていないから,
由宇と夕食を食べて
お風呂に入って。
隣の部屋で由宇を寝させて・・・
その後,ゆっくり
事務仕事をする。
だけど・・・
今日は,なんとなく
気分が乗らないな・・。
そんな風にも思っていた。
朔は今日は
早めに寝ようと決めた。
既に眠っていた
由宇を起こさないように
そっと布団に入った。
天井を見上げた朔は
今朝の中村先生の言葉を
思い出していた。
「どんな恋愛をしてきたの?」
朔には明確な答えがあった。
『恋愛は・・したことない。』
だから・・・答えることなんて
できない。
周りはきっと
由宇のことがあるから
朔は恋愛をしないんだろうと
思っている。
だけど,朔が恋愛をしないのは
それが理由ではない。
だって,由宇を引き取る
ずっとずっと前から
朔は恋愛をしていないのだから。
朔は元々
恋愛には縁がない。
・・・というか
恋愛したいとか
ましてや誰かを好きだなんて
思ったことがなかった。
もちろん生まれたときからじゃない。
あるときを境に
恋愛する気持ちを
『冷凍』してしまった。
元々そういう感情を
知らないわけじゃない。
だけど,
朔が誰かのことを
心の底から好きだと
思えたのは・・・
今までたった
一人だけ・・・。
淡い初恋の彼女の顔しか
朔の「恋愛」のページには
載っていなかった。
朔の初恋は
1年生のころ。
由宇があと1年余りで
1年生になることを
考えると・・
本当に幼い幼い時の
出来事だった。
だけど,朔は
今でもその気持ちを
鮮明に覚えていた。
これまで朔が
「恋に堕ちた」と
感じたのは
そのたった1回だけ
だったから・・・。
40人弱のクラスで
一番背が高かったのが朔で
一番背が低かったのが彼女・・
高須賀 陽和(ひより)だった。
陽和は,クラスの中では
おとなしくて目立たない存在だった。
目はくりっと大きくて
本当に人形のような
少女だった。
勉強もスポーツも
そんなに得意ってわけでも
なかったけど・・・。
なぜかわからないけど
朔には惹かれるものがあった。
入学したころから
なんとなく
「仲良くなりたい」という
気持ちが強かった。
そのころの陽和は
男子と話すのすら苦手って
感じの雰囲気で,
朔も例外ではなく距離を
とられているように
感じていた。
4月の席順は
出席順だったので
朔と陽和は前後に座っていた。
6月のある日。
席替えをすることになった。
朔は,まだ陽和とあまり
話すことをできないまま
席が離れてしまうことを
少し残念に思っていた。
朔のかすかな記憶では,
1年生だったから
くじ引きではなく
先生が決めた席だったように思う。
朔が指定された席の隣には
陽和が座っていた。
朔は
「これは運命だ!」と
その時に思ったのを
よく覚えている。
今考えれば
そんなわけない。
だけど小さい朔にとっては
それくらいの幸運だった。
これは,めったにない
チャンスだ。
1年生の朔はそう思い,
意を決して陽和に
はじめて話しかけた。
「あ・・・
よ・・・よろしく。」
朔は,うまく
言葉にできなくて
ただ一言そう言った。
でも,陽和の方が
もっと言葉に
つまっていた。
「あ・・・うん。」
陽和は俯いて
そう言っただけだった。
それでも朔は
その一瞬を
よく覚えているくらい
嬉しかった。
はじめて陽和と
会話をしたんだから。
その後,1週間くらい
経っていただろうか。
朔が筆箱を開けると
入っているはずの
消しゴムがなかった。
朔は思い出していた。
昨日,宿題をするときに
家でつかったまま
置いてきてしまったことを。
先生に言って
借りるしかないか。
朔はそう考えて
手を挙げようとした。
そのとき・・・
隣の席から手が伸びて
朔の机の上に
ポンと消しゴムが置かれた。
「?」
朔は手が伸びてきた
方向を向いた。
え・・・?
陽和は自分が
行動したくせに
朔の方を向いて
瞳をゆらしながら
大きな目をもっと
見開いている。
「え?
借りていいの?」
朔がそう聞くと陽和は
首を縦に2回ふって
下を向いて真っ赤な顔を
している。
「あ・・・ありがとう。」
そう朔が言うと・・・
そっと朔の方を向いて・・・
にこっと
微笑んだ。
・・・・そのとき
朔の目の前が
パーッと明るくなった
頬の温度が
一気に上がって・・・
胸が痛いほど
キュンとした・・・
陽和の笑顔は・・・
舞い降りた天使の様だった。
朔は・・・もう
20年近く前の
この光景を・・・
忘れることができない。
・・・というか
1日たりとも
忘れたことがない・・・。
それどころか
思い出すたびに
耳まで赤くなってしまう。
もしかしたら朔は
このときの陽和に
恋をしたままなのかもしれない。
朔は由宇の寝顔を見ながら
そんなことを思い出していた。
「馬鹿・・だな・・俺。」
朔は,
初恋も初恋。
そんなときのことを
鮮明に思い出すなんて
よっぽどその後
いい出会いに
恵まれなかったんだろう。
そう思って
自分を慰めていた。
まさか,
陽和を忘れられないなんて・・・
やっぱりどうかしている。
そう思わざるを得なかった。
きっと自分から
恋愛を遠ざけてきたのも
一因だ。
そう思って反省していた。
「さてと,俺も
寝よう。」
朔は,初恋の君の顔を
振り払ってそう言った。
馬鹿なこと考えている
場合じゃない。
今は・・・
由宇のことが最優先。
そして仕事。
俺にはやらなくちゃいけない
ことがたくさんある。
恋愛なんてしている
場合じゃないんだ。
そう・・・
朔はそう自分に
言い聞かせながら
ここ数年を
なんとか踏ん張ってきたのだ。
朔は今日も
由宇を保育園へ預け,
勤務校へ。
職員室横にある
保健室に顔を出す。
「あ,朔ちゃん。
おはよう。」
中村先生は,
さっききたのか,
窓を開けながら
にこやかに話しかける。
「昨日はお疲れ様。」
中村先生は
コーヒーを淹れて
テーブルに着く。
香ばしい香りに
朔は今日も癒される。
朔は,1限目の
授業は入っていないので
のんびりした気分でいた。
「お疲れ様です。
いただきます。」
朔はそういって
コーヒーをすすった。
「なんか,朔ちゃん
微妙な顔・・・
してたなと思って。」
「ええ・・・
そうですねえ・・・。」
そういいながら
朔が渋い表情をしたからか・・・
中村先生はクスクスと
笑った。
「なんか,対照的よね・・。」
「対照的?」
「ええ。
恋愛もしていないのに
子育てに奮闘している
朔ちゃんと・・・
子育てなんて
夢にも思わずに
奔放に恋愛している
女子高生と・・・。」
「・・・はは・・・
そうですね・・。」
朔は苦笑しながら
そう答えた。
「朔ちゃんは
どう感じたの?」
中村先生は,
朔の方を見ながら
少しからかいながらも
少し心配そうな顔をして
朔に問うた。
「・・・あ・・いや,
自分がどうこうってことは
感じませんでしたけど・・。」
「けど?」
「いや,由宇や
由宇の両親のことを思うと・・・
複雑でしたよ。
望まれて,祝福されて
生まれてきた命のはずなのに・・・
そして,由宇の妹は,
望まれて,祝福される
はずだったのに
生まれてくることすら
できなかった・・・
由宇の両親は,
かわいい1歳の子を置いて
逝かなくてはいけなかったなんて
さぞ心残りだったろう・・・と。
そうかといえば,
望まれず・・・
まあ,事情はいろいろ
あるかもしれないけど・・・
人の手によって
奪い去られる命もあるわけで・・・
そう思うと複雑だなって
思っただけです。」
「なるほど・・ね。」
中村先生は大きく頷きながら
考え込んでいた。
「おもしろいわね。」
朔は中村先生の
唐突なその言葉に
少し怪訝な顔を
してしまった。
「あ・・・いや,
ごめんなさい,
不謹慎かもしれないけど・・・
朔ちゃん・・・
完全に親の目線なんだなって。」
「え・・・?
そうですか・・・?」
朔はきょとんとした顔で
そう答えた。
だけど・・・朔は
そう言われたら
そうかもな・・・
と思っていた。
そんなことは,
全然意識していなかった
けれど・・・。
「朔ちゃんはきっと
由宇ちゃんにとっては
いいお兄さんであり,
お父さんであるんじゃないかな?
あ・・お母さん・・・
かもしれないけど。」
そういってまた
中村先生はクスッと笑った。
「どうなん・・ですかね?
俺は何の覚悟もなく
『父親もどき』になったから。
そう思ったら
兄貴のこと,うらやましいって
感じる時もありますよ。
だって,
義姉さんとちゃんと
恋愛をして,
家族になって
愛する人の子どもを
授かって・・・
その後は・・・
つらい運命だったけど・・・。」
中村先生は
また頷きながら笑う。
「朔ちゃんだって
これから,そういうこと
経験するんじゃないの?」
「え・・俺・・が?」
「うん。
そうよ。
普通の25歳は,
そういうことを
夢見たり・・・
今ちょうどその
真っ最中だったり
するんじゃないの?」
「・・・あ・・・
そう・・・ですかね?
俺の中に
そんな意識なかったな。」
そういうと
中村先生はまた,
椅子に座って
朔の方を真剣な
まなざしで見た。
「朔ちゃんってさあ,
由宇ちゃんのことが
ある前って
どんな恋愛をしてたの?」
「え・・?
恋愛・・・ですか・・・?」
朔は心の中で,
「それは・・・
苦手分野だから・・・。
・・・聞かないで・・・。」
とつぶやいていた。
朔の気持ちをよそに
中村先生はまくしたてる。
「だって,
由宇ちゃんを引き取ったのは
21歳なんでしょ?
そのころ,彼女とか
いなかったわけ?
恋愛の1つや2つは
してるでしょう?」
朔はいつもに増して
迫力のある中村先生の
圧力に圧倒されて
たじろいでしまった。
張りつめる空気に耐え切れず
へらへらと苦笑いしていた
朔に・・・
中村先生の厳しい視線が
突き刺さる。
そのとき・・・
ちょうど
1限終了のチャイムが鳴った。
「あ,俺
2限,2年の体育だわ。
着替えに行ってきま~す!」
「あ!ずるい!
朔ちゃん!
この続きはまた
絶対するからねえ!!」
「はいは~い!」
そう言って朔は
保健室を出た。
朔はこう思っていた。
・・・助かった・・
サンキュ・・・チャイム。
朔はその日も
由宇を迎えに行って
家路についていた。
朔は頭の中で
帰ってからのスケジュールを
組み立てていた。
今日は特に学校での
仕事は残っていないから,
由宇と夕食を食べて
お風呂に入って。
隣の部屋で由宇を寝させて・・・
その後,ゆっくり
事務仕事をする。
だけど・・・
今日は,なんとなく
気分が乗らないな・・。
そんな風にも思っていた。
朔は今日は
早めに寝ようと決めた。
既に眠っていた
由宇を起こさないように
そっと布団に入った。
天井を見上げた朔は
今朝の中村先生の言葉を
思い出していた。
「どんな恋愛をしてきたの?」
朔には明確な答えがあった。
『恋愛は・・したことない。』
だから・・・答えることなんて
できない。
周りはきっと
由宇のことがあるから
朔は恋愛をしないんだろうと
思っている。
だけど,朔が恋愛をしないのは
それが理由ではない。
だって,由宇を引き取る
ずっとずっと前から
朔は恋愛をしていないのだから。
朔は元々
恋愛には縁がない。
・・・というか
恋愛したいとか
ましてや誰かを好きだなんて
思ったことがなかった。
もちろん生まれたときからじゃない。
あるときを境に
恋愛する気持ちを
『冷凍』してしまった。
元々そういう感情を
知らないわけじゃない。
だけど,
朔が誰かのことを
心の底から好きだと
思えたのは・・・
今までたった
一人だけ・・・。
淡い初恋の彼女の顔しか
朔の「恋愛」のページには
載っていなかった。
朔の初恋は
1年生のころ。
由宇があと1年余りで
1年生になることを
考えると・・
本当に幼い幼い時の
出来事だった。
だけど,朔は
今でもその気持ちを
鮮明に覚えていた。
これまで朔が
「恋に堕ちた」と
感じたのは
そのたった1回だけ
だったから・・・。
40人弱のクラスで
一番背が高かったのが朔で
一番背が低かったのが彼女・・
高須賀 陽和(ひより)だった。
陽和は,クラスの中では
おとなしくて目立たない存在だった。
目はくりっと大きくて
本当に人形のような
少女だった。
勉強もスポーツも
そんなに得意ってわけでも
なかったけど・・・。
なぜかわからないけど
朔には惹かれるものがあった。
入学したころから
なんとなく
「仲良くなりたい」という
気持ちが強かった。
そのころの陽和は
男子と話すのすら苦手って
感じの雰囲気で,
朔も例外ではなく距離を
とられているように
感じていた。
4月の席順は
出席順だったので
朔と陽和は前後に座っていた。
6月のある日。
席替えをすることになった。
朔は,まだ陽和とあまり
話すことをできないまま
席が離れてしまうことを
少し残念に思っていた。
朔のかすかな記憶では,
1年生だったから
くじ引きではなく
先生が決めた席だったように思う。
朔が指定された席の隣には
陽和が座っていた。
朔は
「これは運命だ!」と
その時に思ったのを
よく覚えている。
今考えれば
そんなわけない。
だけど小さい朔にとっては
それくらいの幸運だった。
これは,めったにない
チャンスだ。
1年生の朔はそう思い,
意を決して陽和に
はじめて話しかけた。
「あ・・・
よ・・・よろしく。」
朔は,うまく
言葉にできなくて
ただ一言そう言った。
でも,陽和の方が
もっと言葉に
つまっていた。
「あ・・・うん。」
陽和は俯いて
そう言っただけだった。
それでも朔は
その一瞬を
よく覚えているくらい
嬉しかった。
はじめて陽和と
会話をしたんだから。
その後,1週間くらい
経っていただろうか。
朔が筆箱を開けると
入っているはずの
消しゴムがなかった。
朔は思い出していた。
昨日,宿題をするときに
家でつかったまま
置いてきてしまったことを。
先生に言って
借りるしかないか。
朔はそう考えて
手を挙げようとした。
そのとき・・・
隣の席から手が伸びて
朔の机の上に
ポンと消しゴムが置かれた。
「?」
朔は手が伸びてきた
方向を向いた。
え・・・?
陽和は自分が
行動したくせに
朔の方を向いて
瞳をゆらしながら
大きな目をもっと
見開いている。
「え?
借りていいの?」
朔がそう聞くと陽和は
首を縦に2回ふって
下を向いて真っ赤な顔を
している。
「あ・・・ありがとう。」
そう朔が言うと・・・
そっと朔の方を向いて・・・
にこっと
微笑んだ。
・・・・そのとき
朔の目の前が
パーッと明るくなった
頬の温度が
一気に上がって・・・
胸が痛いほど
キュンとした・・・
陽和の笑顔は・・・
舞い降りた天使の様だった。
朔は・・・もう
20年近く前の
この光景を・・・
忘れることができない。
・・・というか
1日たりとも
忘れたことがない・・・。
それどころか
思い出すたびに
耳まで赤くなってしまう。
もしかしたら朔は
このときの陽和に
恋をしたままなのかもしれない。
朔は由宇の寝顔を見ながら
そんなことを思い出していた。
「馬鹿・・だな・・俺。」
朔は,
初恋も初恋。
そんなときのことを
鮮明に思い出すなんて
よっぽどその後
いい出会いに
恵まれなかったんだろう。
そう思って
自分を慰めていた。
まさか,
陽和を忘れられないなんて・・・
やっぱりどうかしている。
そう思わざるを得なかった。
きっと自分から
恋愛を遠ざけてきたのも
一因だ。
そう思って反省していた。
「さてと,俺も
寝よう。」
朔は,初恋の君の顔を
振り払ってそう言った。
馬鹿なこと考えている
場合じゃない。
今は・・・
由宇のことが最優先。
そして仕事。
俺にはやらなくちゃいけない
ことがたくさんある。
恋愛なんてしている
場合じゃないんだ。
そう・・・
朔はそう自分に
言い聞かせながら
ここ数年を
なんとか踏ん張ってきたのだ。