赦せないあいつと大人の恋をして
母親
 彼のお母様は、彼が中学生の時に亡くなったと聞いていた。ずっと心臓が悪かったと言っていた。もしも小学生の頃から具合が悪かったとしたら……。

 この幼稚園には元気だった頃のお母様との思い出がたくさんあるのだろう。手をつないで幼稚園に通う道すがら話をした母親との思い出。手の温もりや優しい笑顔。帰り道には夕飯は何が食べたいなんて話もしたのだろう。運動会や遠足、参観日やお誕生日会、作ってくれたお弁当。

 お腹を痛めて産んだ子供の成長を見ることも出来ずに亡くなった母親。どんなに心残りだっただろう。心配だっただろう……。

「どうした?」

 彼の声に我に返った。

「えっ?」

「目にゴミでも入ったのか?」
 心配そうに覗き込む。

「あぁ。うん。そうなの」
 私は知らない間に涙が零れそうになっていた。目にいっぱい涙をためている私に彼は気付いたようだ。バッグからハンカチを出して涙を拭う。

「大丈夫か?」

「うん。もう取れたみたい」

「じゃあ、行くか?」

 彼の思い出の幼稚園を後にした。車を運転しながら時々彼は私を見ている。私がさっき考えていた事に気付いているんだろうか?

 私は出産を経験した友人の言葉を思い出していた。愛する人との愛の結晶を命懸けで産むのは女の最高の誇り。

 陣痛が始まって分娩室に入ってから出産までに十二時間掛かった友人。
「死ぬかと思った」
 彼女は笑顔で言った。
 
 分娩の途中で裂けてしまうのを防ぐためにメスで切られた話。あぁ、今メスで切られているんだなと思ったと笑っていた。
「痛くなかったの?」
 と聞くと
「陣痛の方が何万倍も痛くて何ともなかった」
 自分の体を切り刻まれている痛みより酷い痛み……。私は彼女を心から尊敬した。

 マザコンなんて言葉があるけれど、当たり前だと言いたい。それくらい母親を大切に思う気持ちは、人間として普通の事だと。この世に一人の人間を産み出す大変さは天文学的な数字でも表せないと思う。

 そんな思いまでして産んだ愛する我が子を置いて逝く悲しみ。死んでも死にきれないだろう……。
 私は彼の母親の無念さを思い、また涙が零れそうになっていた。
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