妖しく溺れ、愛を乞え
「ちょっと待って、雅」
「なに?」
「抱き締めさせろ」
振り向くと同時に、深雪に抱きすくめられた。なんなの急に。元気なのは良いことなんだけれど。
石けんの良い匂いがする。
「ちょっと……もう」
「はぁ、安心する」
「ハイハイ」
触りたいだけだろうが。このスケベ。ウンウン唸っていると、やっと解放してくれた。
こんなことをしてじゃれ合っている場合ではない。時間が無い。朝は忙しいんだ。
「じゃあ、あたし行くからね」
「いってらっしゃい」
ひらひらと手を振って見送る深雪に微笑んで、玄関ドアを閉めた。
◇
朝、社内がバタバタするのはいつものことで、今朝も例外ではなかった。早く出勤している人達が、あーでもないこーでもない、営業マンが取引先の打ち合わせに遅れそうだとか、部長がお茶をこぼして書類をビショビショにしていたりして、騒々しい。
いつもの日常。あたしのデスクの上も、請求書と伝票がたっぷりと。
「ああ……昨日処理したのにまたいつもの如く……」
締め切りをみんなに連絡しているのになぁ。なにか改善策は無いだろうか。きっちりすっぱり改善はしないだろうけれど、もうちょっとましになると良いな。帰ったら深雪に相談してみよう。
支店長は既に出かけていて、夕方まで帰って来ない。社員の予定ホワイトボードを見ながら、体調はどうだとか、先週その後どうしたとか、聞かれたらどうしようと思っていた。
今日、深雪が休む旨は支店長に連絡したと言っていた。あたし達が一緒に住んでいることは、誰も知らないのだから、余計なことはしない方が良いだろう。もしも、なにか聞かれたら、送り届けて帰りました~とか適当に話しておこう。
みんな出かけて行き、社内にはあたしと部長だけが残っていた。