妖しく溺れ、愛を乞え
「ぶ、部長。すみません……具合が悪いので早退したいのですが……」

 もちろん、体はなんともない。どこも痛くない。心がソワソワする以外は。

「なんだ、大丈夫か。熱があるのか?」

「今朝からちょっと熱っぽかったので……すみません」

「帰りなさい。初乃ちゃんももうすぐ帰ってくると思うし」

 仮病を使って早退するなんて……子供じゃあるまいし。でも、こうしてはいられない。じっとしてなんか……。

「すみません。失礼します」


 顔色を変えられるわけじゃないし、深刻そうな表情を崩さぬように、あたしは部長に頭を下げ、デスクへ戻る。適当に片付けると、もう一度部長へ挨拶をし、事務所を出た。

 更衣室でスマホ履歴を何度見ても、深雪の番号が無い。壊れた? 違う、そんなことは無い。クラウドに接続しても無かった。まさか。

 いってらっしゃいって、笑顔で送り出してくれた。部屋で休んでいるはず。


 マンションへと急ぐ足がもつれる。部屋に居るはず。なんだ、早かったなって、早退したのかって、心配して言うよね。困ったように笑って。

 笑って。


「深雪!」

 勢い良くリビングへ駆け込んで、名前を呼んだ。

「……」

 綺麗に片付いたテーブル。洗濯物が畳んであった。キッチンを見ると洗い物も無く、綺麗になっている。
 寝室のドアを開けた。
 
 ベッドの上には、畳んだ毛布とパジャマ、タオル。閉まっているクローゼットを開けてみると、スーツと私服はそのままだった。

「深雪?」

 リビングへ戻って、声をかけてみた。返事は無い。静まり返って、なにも聞こえない。冷蔵庫の音、自分の呼吸。それしか、聞こえないの。

 消えた履歴、会社に在籍した痕跡も無い。

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