妖しく溺れ、愛を乞え
 お金、貯金していて良かった。しばらくホテル住まいだ。新しい部屋を探すまで。

 別れの日が休日前だったのがせめてもの救いだと思った。これはもう、飲みに行くしか無い。行きつけの小さなお店に電話して、席を取っていて貰うようにしたし、シャワーを浴びて、薄くメイクをする。

 一緒に住んでいた彼氏と別れて、部屋を出て、ビジネスホテルに泊まる。なにこれ、どういうことなの。仕事から帰って来て、珍しく潤が居ると思ったら、別れ話をされるなんて。

 両親は死んだ。兄弟も居ない。社会人になって家を出るまで育ててくれた祖父母ももう居ない。近くに親戚も居ない。居たとしても知らない。頼れるのは恋人の潤だけだった。

 こういうの、ひとりぼっちになったって言うんだよね。ああ、そうか。

 鏡の中の自分の顔を見て、ため息をついた。展開が早過ぎて心が付いて行かず、泣く暇さえ無かった。だからって今、泣ける気持ちでも無いけれど、なんでだろう。ゆっくり考える暇も無い。

 数十分後のあたしは、冷たいビールを喉に流し込んでいた。何があっても裏切らないこの美味しさ。楽しくても辛くても悲しくても、ビールはいつもビールだ。

「なにそれ。それで出てきちゃったの? 雅ちゃん」

「うん……だって、どうしようも無いじゃない?」

「彼、追っても来ないしね……」

 トントンと、包丁の軽快な音を立てながら、店長のミミさんがため息をつく。

 ここはサンドイッチが美味しい、行きつけのお店。潤と一緒に住んでいたマンションから電車でひと駅のところ。
 ここで彼と鉢合わせする心配は無い。だって潤はひとりで飲みに出るのが嫌いだから。

 住宅街にあるこの店は、店長が女性で、女性ひとりでも入りやすく、見つけた時はとても嬉しかった。お酒も飲めるし、お料理もとても美味しい。
 隠れ家的な店であり、近隣住民に愛される店とも言う。

 ランチもあるし、夜はお酒が飲める。

 なにより店長が女性だっていうことと、とても話しやすいこと、それが一番だった。10個くらい年上だったはず。もちろん料理は美味しい。仕事帰りによく寄っている。相談に乗ってくれたり、愚痴も聞いてくれる。

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