短編集 ~一息~
『能力』

 休日の朝、男はいつもより早い時間に目が覚めた。いや、というよりも起こされた。
 独り者の男には同棲している最高の相棒がいる。それが三歳のオス……愛犬だった。
 会社に行く一時間前の時刻になると、愛犬は必ず散歩をせがむ。せがまれると行くしかないので外に出る。三年間、それが習慣になっていた。
 しかし、今日は休日だ。男は寝坊すると決めたのだ。
 ところが、タヌキ寝入りを決めこんだ男の耳元にきた愛犬が、
「おい、散歩行こうぜ! この時間に出ないと彼女に会えないじゃんかよ!」
 突然、流暢な人間語で話しはじめた。寝惚けていた男の眠気も一気に吹っ飛んだ。
 空耳だろうと思った男は、陽を入れるために窓を開ける。
 すると、目の前の電線にいた雀が、
「おい、米粒あったか?」「いや、もう刈り取られてねーよ」
 と、人間語で流暢な雑談をしていた。
 男はそこでようやく気付いた。俺は能力に目覚めたんだ。これを利用しない手はない。
 煩く騒ぐ愛犬の散歩を適当に終わらせた男は、財布とカードを手に外に出た。銀行口座から預金をおろせるだけ出して手にすると、足早に目的地へと向かう。
 数刻後には競馬場のパドックに到着し、馬たちの様子を見ていた。
「今日はちょっと自信ないなー」
「興奮してきたぜ! はやく走らせろ!」
「こんな雑魚たちに俺が負ける訳ないぜ!」
 これから周回する馬たちの言葉が、全て男には丸分かりだ。
 いつもは悩みに悩む勝ち馬予想だが、迷うことなく馬券を手に入れ出走を待った。
 ところが、レースの結果は散々で、全てゴミ屑となってしまった。
「なんでだ! 俺の能力は間違っていないはずだ! なんで……」
 最後まで言いかけた男は、そこでようやく気付いた。
 所詮、わかるのは言葉だ。彼らの本心ではない。テスト前の優等生が「勉強してない」というのと同じではないか!
 後悔しても既に遅い。帰りの電車賃もない素寒貧だ。
 男は肩を落として歩き出す。せっかくの能力もこれでは無駄ではないか。
 そして、頭上で「アホー」と鳴く、カラスの鳴き声の翻訳は必要なかった。
< 11 / 89 >

この作品をシェア

pagetop