短編集 ~一息~
『転倒』

 男は鼓膜が激しく揺れ、脳髄に響くほどの大きな女性の声に気付くと目を開けた。
 倒れたのだろうか。体中が痛くて顔を顰める。体を起こすと女性が支えてくれた。
「あなた、大丈夫! いくら呼んでも目を開けてくれないから、死んじゃったかと思ったわ!」
 男の目の前にいたのは妻だった。
 結婚生活五年目、子供はできていないが、それなりに幸せな生活をしていた。目の前にいる妻は、大粒の涙を流しながら、
「大丈夫? 大丈夫?」と繰り返している。
 倒れたのだろうか。直前までの記憶がない男は妻に訊いた。
「俺、どうしたんだ? 倒れたのか? なんか凄く後頭部が痛いけど、頭を打ったかな」
 男が訊くと、妻は目を丸くしてじっと見詰め返した。
「え? 何も覚えてないの? 帰ってきて、夕食しながら……」
「ああ……食事していたのか。いつも君の料理はうまそうだな。倒れた俺を心配してくれたんだね。ごめん、心配かけて。感謝しているよ。倒れたのは多分、仕事が忙しかったからだろう。明日は会社を休んで病院に行ってみるよ」
 まだ心配そうに見詰める妻を気遣って、男は食事を口に入れた。頭の痛みは徐々に少なくなってきているようだ。やはり、倒れた時にぶつけただけなのだろう。
 食事する男をしばらく見ていた妻は、手をとめると席を立った。
「ぶつけた頭を冷やすためのタオルを濡らしてくるわね」
 奥に入っていく妻の背中を見ながら、男は「ありがとう」と言って感謝した。

 タオルを取りに奥の部屋に入った妻は、夫の視線が離れたのを確認すると「ほぅ」と軽い息を吐いた。
 様子を窺うと、夫の鞄から携帯電話を取り出す。
 許可もなくメールを開くと、妻は言った。
「驚いたわ。まさか全部忘れているなんて……しかも私に感謝していると言ってくれて。まるで新婚生活時代に戻ったみたい。こうなるのだったら、もっとはやく殴っておくんだったわ。浮気相手のメールを見つけて殴ったのが切っ掛けになるなんて……さてと、今のうちに、あの女のメール記録を全て消してしまいましょう……」
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