短編集 ~一息~
『伏兵』

 某会社の会議室で、マニュアルを前にしての討論がはじめられていた。中心は彼らのリーダー。神経質なまでの几帳面さで、仕事にも間違いがなく信頼されていた。
 そんなリーダーと対峙しはじめたのが、入ったばかりの男だった。履歴書には点々と職を変えてきた記録があり、騒動を巻き起こしてきたのが理由だろうという噂もあった。
「マニュアルなんて、破るためにあるようなもんでしょ? 硬い脳みそで考えるから進展ないんっすよ」
 男は背もたれに体を預けながら、持ってきていたコーヒーを飲んだ。
 もはや会議をしているという態度ではない。他の者たちも迷惑そうに眉をひそめた。
「マニュアルを守っていないから、クレームが絶えないんだ。それにこれは改善の話じゃない。反省の話だ」
 男は「へー」と鼻を鳴らすように答える。尚も言い寄ろうと考えている様子だった。
 その時、「あっ」と言った女性が席を立った。彼女も新卒で入った人物だ。
「ごめんなさーい。ちょっと出まーす」
 悪びれる様子もなく女性は携帯を取り出すと、大きな声で話しはじめた。
「あっ、まゆりんー。え、悩み相談? うん、いいよ。聞いちゃう」
 傍若無人な新人の行動に呆れるしかない。女性は構うことなく話し続けていた。
「あんな口先だけ偉そうにしている奴を切ってないの? 馬鹿だよね、あいつ。自分が一番偉いって勘違いしてるんだからさ。他に点々としている男の言うことなんて信用ならないでしょ。輪を乱すような奴なんていないほうがいいじゃん。切っちゃえ、切っちゃえ」
 恋愛相談でもされているのだろうか。
 しかし、あまりにも的を射た話なので全員が押し黙った。そう、全員の視線が先程まで反論していた男に向けられているのだ。
 男も場が悪そうに俯いている。女性は話が終わると、何事もなかったように席に着いた。
「どうぞ。続きお願いしまーす」
 女性が言うが、男は項垂れたままで、先程の勢いは消えている。
 リーダーは息を吐くと、マニュアルを中心とした話を続けた。会議は最後まで順調に進行し、男も最後まで反論することはなかった。

 会議が終わると、全員部屋を出た。
 女性の出て行くのをとめたリーダーは、彼女に注意した。
「会議中に恋愛相談はどうかしているぞ。ああいったかたちで終わったからいいものの、電源は切っておけ」
 叱られた女性は笑みを浮かべた。そして、携帯電話を上司に突き出す。
「けど、あいつ静かになりましたよね。いくら私でも会議中に電話はしませんよ。ほら、切ってまーす」
 確かに画面は真っ暗だった。携帯をとる前も着信メロディーがならなかった。いや、振動音さえも聞いてはいない。
 リーダーは立ち尽くしてしまった。機嫌よさそうに女性は口笛を吹いて仕事場に消えた。
 とんだ優秀な伏兵がいたものだ――。
 リーダーは自分の立場がいつまでもつのか考えて、少し不安になっていた。

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